2月28日のメッセージと今週の毎日の聖書

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2021年2月28日「困難の時に知っておきたい聖書30」

 

<聖書 ヘブル人への手紙>

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 

<ファミリータイム 申命記>

3:24 「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。 3:25 どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」 3:26 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。

3:27 ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。 3:28 ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」・・・

 

34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、・・・・

 

<心が折れないために>

オリンピック・パラリンピック、どうなるでしょうか?様々な意見があるでしょうが、出場を目指すアスリートの方々の心についての記事も多くみられるようになりました。

スポーツでなくても、突然道が閉ざされた時、自分の思い描く方法では願いが実現しなかった時、努力や祈りを重ねても状況が改善しない時、そんなみなさんに経験があるでしょうか。もともと才能豊かで自信にあふれ、メンタルコーチまでいるスポーツ選手ならまだしも、そのような時の私たちは、頭と心が、今後への恐れ、誰かへの恨み、現状への不満、自分への憐みで、いっぱいになってしまいます。視野がどんどん狭くなり、心は内へ内へとこもり、手と足は次第に止まってしまいます。

 

そんな時は是非申命記を1章から読んでみてください。モーセが自分の信仰の旅路を語る箇所です。モーセ自身も決して特別ではない人でしたし(逆に謙遜でした)、コーチもいませんでしたが、(神さまがコーチでしょうか)、特に3章では、彼が人生最大の失望からどのように立ち上がったかも語られています。

 

モーセは、謙遜に、時に勇敢に、エジプトから約束の地カナンへと人々を導いてきました。けれど、約束の地を前にして、人々の心は怖気づき、40年も約束の地の手前で待たなくてはならなくなります。そして、その40年の間にたった1つの失敗をします。

(民数記20章で)いつものように民が水を求めて不平不満を言います。その時、感情が溢れ、神の言葉を忘れ、まるで自分が水を出すかのように、高慢になってしまいます。そこで、神はモーセが約束の地に入らせず、カナンの地に導く役割は、ヨシュアに引き継がれます。

 

80歳の時点で、体力に不安があり、祈りのために介助をされていたモーセが、120歳で約束の地に入ったからといって激しい戦いが待つカナンの地で、民のリーダーとして勤め上げるのは難しかったでしょう。また、カリスマ指導者モーセから若いヨシュアへのリーダー交代は、これからカナンの地に入る人々にとって、神にこそ徹底的に頼って歩むという意味で、必要な変化だとも思います。

 

モーセも頭では分かっていたでしょう。けれど、自分もその地に入りたかったでしょうし、自分で導き入れたかった。他の箇所には記されていませんが、申命記3:24~のモーセの独白で、実はモーセが神様に何度も祈っていたようです。しかし、神は答えます。「もう十分だ。もう言ってはならない」と。

聖書の中でも、人間的に見れば、人情的に見れば、何で?という時期に、地上から取り去られる、ことがあるのです。(例:モーセからヨシュアへ、エリヤからエリシャへ、バプテスマのヨハネからイエスへ)

私たちも全く同じではないにしろ、願い通りにならない、神様どうして、ひどいじゃないか、そう思うことはないでしょうか?

 

<ピスガの頂に立つ>

神様はモーセを突き放した訳ではありません。神様はモーセを山に誘うのです。20章の失敗の後、民数記21章でモーセと民はピスガの頂に登っています。

ピスガ(ネボ山)という700メートルちょっとの山からは、600メートルに満たない高尾山からも都心まで見渡せるように、約束の地カナンを見渡すことが出来ます。ピスガの頂に立ったモーセには、その景色がどのように映ったでしょうか?

 

モーセが何を感じたかは記されていませんが、モーセの行動は変わりました。その後も腐らずに民を導き、ヨシュアにリーダーを引き継ぐ備えをしていきました。

自分の願いや思いに心が向き、小さく凝り固まっていたであろうモーセですが、山の頂から見たカナンの景色によって、神がなそうとしている素晴らしい計画を再確認することによって、再びその目と心が、自分自身の内側から、神様のほうへと移っていったようです。自分は大切なことのために生きていたのだ、神の思い計りは、私の思いとは違ったが、さらに大きく豊かなのだと気付くことが出来たでしょう。

 

(もしかしたらですが、モーセは、心が塞がるたびに何度もピスガの頂に立ち、約束の地を見に行ったのかもしれませんね。)

 

そして、(申命記34章で)死の直前にもモーセは再びピスガの頂に登るのです。最後の時を前に、恐れや心配、人生への疑問があったのかもしれません。そこで神様は約束の地を詳しく解説するかのように見せます。モーセは、神の約束を再び目にし、それに満足と平安を得たかのように、その頂の上で、亡くなりました。

 

<I’ve been to the mountaintop>

この箇所をもとにした説教(スピーチ)があります。それはアメリカの公民権運動を主導したマーチン・ルーサー・キング牧師による「I’ve been to the mountaintop(私は頂に立って見てきた)」という説教です。

(「I have a dream(私には夢がある)」というスピーチで有名ですが、それ以上に有名なスピーチですね。)

 

1968年4月3日(暗殺の前日)にメンフィスのメイソン監督記念聖堂で最後の説教を下記のように語っています。「私自身、自分の身の上に何が起きるか分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。でも私はそんなことは気にならない。たしかに私も人並みに長生きしたい。でも今の私には重要なことではない。今はただただ神の意志を体現したいだけの気持ちで一杯だ。神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂から約束の地が見えた。私自身は皆さんと一緒には約束の地に行けないかもしれない。でも、知ってほしい。私たちは一つの民として約束の地に行くのだということを。だから、私は今うれしい。私はどんなことにも心が騒がない。どんな人も怖くない。主が栄光の姿で私の前に現れるのをこの目で見ているのだから。」

 

キング牧師は今日の場面のモーセと自分を重ねそのように語ったのです。モーセやキング牧師のように志半ばで死を迎える、という意味ではなくても、私たちは自分の願いや思いが、自分の願いそのままの形では実現しない時があります。そんな時、わたし達の目は自分に向き、心は小さく狭くなってしまいます。

 

ですから、私たちもピスガの頂に立ち、神の約束を目に、心に刻みたいのです。失望するたびに、何度でも、

何度でも登り、目の前の山の向こうを、神が用意しておられる祝福を見たいのです。

聖餐式の式文で「小さく狭い私たちの心を打ちこわし、キリストの心が私たちを満たすようにしてください。」という祈りがあります。モーセの山の頂で約束の地を見た体験のように、私たちが聖餐式でキリストの犠牲とやがての天の祝宴を覚える体験は、聖書を読んだり礼拝をしたりして神にある希望に目を向ける体験は、神と出会った者の心をより広くより豊かに回復させ、その歩みを強めてくれるのです。

 

<本当の約束の地>

モーセは、約束の地カナンの前に生涯を閉じましたが、本当の約束の地である、神のもとへ行きました。

(マタイ17:1~ マルコ9:2~ ルカ9:28~、では、モーセはキリストとともに話し合っています。)

私達に備えられた、本当の約束の地としての天の御国、神の国があります。そこでは(黙示録21~22章)神が私たちと顔と顔を合わせて会い、涙をぬぐってくださるとあります。天に神がおられるのでなく、愛と恵みの神のおられるところが天、神ご自身が私達の約束の地なのです。(「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」詩篇73:26)

やがて完全に出会うことを希望とし、新しい週も神とともに歩めますように。

 

<今週の黙想>毎日、黙示録21~22章を読み、ピスガの頂に立ち約束の地を見てください。

 

おざく台教会毎日の聖書 3月1日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。無料スマホアプリ「聴くドラマ聖書」には全文載っています。

短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

3月1日(月)第一テモテ2章

4~5節「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

神様は、偽りでもなく、耳障りの良い思想でもなく、真理を知るように願っています。私たちは、愚かで口下手で、立派な歩みは出来ないかもしれませんが、真理であるキリストを他の方々よりも先に知ることができました。

今週祈りつつ、示された人に、キリストについてお伝えするために何か一つ行動してみてください。

 

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14章6節

 

3月2日(火)第一テモテ3章

2~4節「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。」

立派だから人に話せるわけではないですし、人が救われるのは聖霊なる神さまの働きによります。けれど、どう生きているかが私達の口から出る言葉以上にメッセージとなります。この箇所でパウロが示した、指導者や語る者の資質、それはある意味では、全ての信仰者に対しても言えるものだと思います。決して投げ出さず、目指してみてください。

 

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5章16節

 

3月3日(水)第一テモテ4章

12節「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」

パウロは、若くして大役を担ったテモテに対して、年齢、能力、信仰歴、状況、そういったことを言い訳にせず、神に対してまっすぐに歩むように教えます。もう歳だから・・・、賜物がないから・・・、状況が悪いから・・・、それらは事実かもしれませんが、私たちが神を全力で愛さない理由にはなりません。ギデオンのように、今のあなたの力で、今のあなたの状況で、神様を愛するために立ちあがってください。

 

「主は彼に向かって仰せられた。『あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」士師記6章14節

 

3月4日(木)第一テモテ5章

8節「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」

信仰ゆえに家族や親族から、厳しい扱いを受けることもあるかもしれません。しかし、信仰ゆえに、あなたのほうから家族や親族を軽んじてはならないのです。神を愛する人は、家族を愛します。親族を愛します。あなたの家族のため、親族のために、祈りを深め、より仕えてください。

 

「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。 それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」ヨハネ19章26~27節

 

3月5日(金)第一テモテ6章

6~8節「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。 衣食があれば、それで満足すべきです。」

満足とは、満ち足りる、という言葉です。一方で今日の私たちは、多くを持ちながらも不満感を抱えてしまっています。私たちは手に入らなかったものや、手の中にないものに、心を惹かれます。しかし、すでに与えられているものも豊かにあるのもまた事実です。

私たちは何かを手に入れようと夢中になりますが、それらは天へと持って行くことは出来ません。

神に感謝をする時間、与えられた恵みを数える時間を持ってみませんか?きっと、心が満ち足りる時間になると思います。

 

「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。 私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」箴言30章8~9節

 

3月6日(土)第二テモテ1章

9~10節「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」

私たちは努力や知識、悟りや感情ではなく、神の選びと恵み選びにより救われました。私たちは「受け入れられていることを受け入れる。」(パウル・ティリッヒ)だけです。大切なことを忘れてはいませんか?あなたはすでに愛され救われています。

 

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5章8節

 

3月7日(日)第二テモテ2章

13節「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」

当時の讃美歌の一節とも言われています。私たちが不誠実で変わりやすくても、神は恵みの契約のゆえに私たちへの愛を変わらずに貫かれます。あなたは不変で永遠、無条件の神の愛の対象なのです。

 

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」エレミヤ31章3節

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