2月21日のメッセージ録音&今週の毎日の聖書

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おざく台教会では日曜礼拝(10時半~)は基本的にZOOM。ネット環境のない方のみ礼拝堂。

水曜聖書の会(10時~、18時半~)も同様です。参加ご希望の方は前日までにお声がけください。

 

21日のメッセージです。

https://www.dropbox.com/s/zay41iqs134x8yy/%E7%BE%BD%E5%8A%A0%E7%BE%8E1%E4%B8%81%E7%9B%AE%20%2340.m4a?dl=0

おざく台教会毎日の聖書 2月22日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。無料スマホアプリ「聴くドラマ聖書」には全文載っています。

短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

2月22日(月)第一テサロニケ3章

3:12「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」

パウロは手紙に2つの願いが記しました。1.キリストを真に知るように。2.キリストの愛が私達のうちに実現するように。この2つの事を祈りながら、新しい週を過ごしてみてください。また、そのためにあなたはどのような応答が出来るでしょうか?

 

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節

 

2月23日(火)第一テサロニケ4章

16~18節「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」

私達の生涯は、労苦、悲しみ、孤独のうちに終わるのではありません。やがての平安、再会、喜び、いのちが待っているのです。心が弱る時こそ、4月4日のイースターに向け、この希望によって慰めを得られますように。

 

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」黙示録21章3~4節

 

2月24日(水)第一テサロニケ5章

16~19節「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 御霊を消してはなりません。」

私達の心は、喜び、祈り、感謝に溢れているでしょうか?それとも、悲しみ、諦め、不満に満ちているでしょうか?それらは外の状況ではなく、内側に住んでくださる聖霊なる神様からもたらされます。自分の心を、外のもので満たそうとし過ぎてはいませんか?(もちろん、神が創造したこの世界の楽しみも大切です。しかし、忘れないでください。いのちの泉は、すでにあなたの内側に湧いているのです。

 

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4章14節

 

2月25日(木)第二テサロニケ1章

11節「私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」

私達はただ偶然そこで生活しているように見えて、じつは神の計画と期待によって、それぞれの家庭、職場、人間関係、環境の中に置かれています。私達には、今日も神から与えられた大切な仕事・役割があるのです。一つ一つのことを、主に仕えるように丁寧に、愛と祈りを込めて行ってみてください。

 

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」コロサイ3章23節

 

2月26日(金)第二テサロニケ2章

16~17節「どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、 あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」

私達の毎日は選択の連続です。良い選択もあれば、悪い選択もあるでしょう。そして、最善の選択もあります。「ベスト(最善)の敵は、ベター(それなりに良い)」と聞いたことがあります。私達は神の道、最善の道を求め続けたいのです。今日あなたの選択が、神の願いと一致するよう、出来る限り近いものであるよう、祈りつつ、聞きつつ、選びながら生活してみてください。

 

「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」申命記30章19節

 

2月27日(土)第二テサロニケ3章

1節「終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。」

あの大使徒パウロが祈りを求めています。祈られずに、神の憐みなしに、神の業は行えないのです。主イエスでさえも、十字架の前の晩、ゲッセマネの園で、弟子達の祈りを必要としました。あなたも、わたしも、誰かに祈られる必要があるのです。

今日を、誰かのために祈る日としてください。誰かに祈りを求める日としてください。

 

「あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ5章16節

 

2月28日(日)第一テモテ1章

15~16節「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」

罪があることは(罪の影響を受け弱さや愚かさがあることは、神と人の前に恥ずべき性質や行為があることは)決して隠すべきことではありません。どんな人間も皆、罪の中にあるのですから。

大切なのは、罪の中にあることを認め、神の差し出してくださっている手を取ること、神に憐みを求めることです。

罪(神への離反)を持って生まれたのは、あなたの責任とは言えないかもしれませんが、キリストの十字架に日々どう向き合うかは、私達が責任を持って応えるべきことです。

 

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ2章24節

 

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