2月21日のメッセージ

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2021年2月21日「困難の時に知っておきたい聖書29」

 

<聖書 コロサイ教会への手紙>

3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、 3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

 

<ファミリータイム 民数記>

13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。 13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。 13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」 13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」 13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。 14:30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。 14:31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。

 

 

<荒野の日々を無駄にしない>

感染状況も少しだけ落ち着き、ワクチンの接種が始まりましたが、コロナの影響は続き、私達の荒野の旅も、まだまだ続きそうです。

牧師として、荒野を旅して失敗を重ねたイスラエルの話をしていますが、自分自身も荒野を旅しているかのようなコロナ禍において、自分の言動や、神と人への姿勢には、イスラエルと重なる面もあり、生き方や在り方において、失敗も多かったと、情けなく、恥ずかしく思う時もあります。

確かに、私達は生きている限りは、個人的にも、教会としても、社会全体でも、荒野を通る期間があります。それはただ単に早く過ぎ去ることを願いつつ耐え忍ぶべき、無駄な時間なのでしょうか?

 

先日ドイツのメルケル首相の「わたしの信仰」という本を紹介しましたが、今日はドイツの元大統領、ヴァイツゼッガーの「荒れ野の40年」という本を紹介します。第二次世界大戦終戦から40年の5月8日、連邦議会で語った内容であり、『過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目となる。』という有名な言葉が含まれています。

そこから分かるのは、荒れの野40年を、決して恥と苦しみに耐えるだけの日々とは捉えなかったことです。ドイツは自分達の過去にしっかりと向き合い、その40年を経て、欧州の中でも信頼される国へと変わりました。その時を経て、かつて国がないユダヤ人を収容所に送ったドイツが、今度は率先して、国を失った移民を受け入れる国へと変わっていった。荒野の40年を無駄にしなかったのです。

 

 

<荒野は必要な日々でもある>

今日のファミリータイムでは、せっかくエジプトを出たのに、約束の地を目前として、もう40年荒野で過ごすことになるというお話しでした。古い世代は死に絶え、新しい世代が生まれます。

ところで、みなさんは荒野の40年を、神様からのただの罰ゲームのように考えていないでしょうか?(確かに、約束の地カナンを目指す旅は、やがての神の国(天の御国)に向かい生きる私達と重なる面もあります。神に信頼しなかった人達が約束の地に入れず年老いて死んだように、自分も不信仰だと神に見捨てられるのでは?とまで飛躍して考える人もいるようです。)

 

しかし、イスラエルは約束の地、カナンについてめでたし、めでたし、ではありません。約束の地カナンは、1つのゴールでありますが、同時に新しいスタートでもありました。カナンの地には様々な民が住み、様々な神が祭られていました。そこには激しい戦いや多様な誘惑があり、それらに立ち向かわなくてはならなかったのです。

すぐに神を忘れ、目の前の状況に左右される彼らのままでは、このままカナンに入ったらどうなったでしょう?敗北や妥協、背信が目に見えていて、全部族が滅びたかもしれません。だから荒野の40年なのです。

 

個人として見ればその40年のせいで成人男性たちは約束の地に入れずに死にました。しかし、全体として見れば、新しくなるために、約束の地が本当の意味で神が約束された祝福の地となるために40年を必要としたのです。40年を経て、ただ、世代が新しくなったのではない。神に信頼するという新しさをもった世代が約束の地に向かって立ち上がったのです。

 

私達の神は、見捨てる方でなく、見捨てずに何度でも取り扱う方です。私達が失敗する時、人は見捨てるかもしれませんし、あなた自身も自分を諦めるかもしれませんが、神は決して見放さず見捨てないのです(ヘブル13:5)。荒野とは単なる苦しみの場ではありません。荒野とは神との関わりの回復の場、神の取り扱いの場です。

 

 

<古いあなたから、新しいあなたへ>

私達に引き寄せて考えるなら、コロサイ3:8~9で「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。  互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」とあるように、私達の中にある古い、恐れが、不満が、自己中心さが、不信仰さが死に、新しい希望や、信頼や、勇気や、謙遜が、生まれるということでしょう。

 

荒野の40年の間、イスラエルはただ長いアウトドア生活をしていたわけではありません、その間にも様々な出来事や戦いが起こるのです。乏しい場所で、危険も多い場所で、神に養われ、守られることを通して、神への信頼を学んでいったのです。

コロナ禍をはじめとした荒野の時、是非、心も身体も守られてほしい。同時にただ通り抜けるだけでなく、私達が神と出会うことを、神が私達のうちに新しいものを生み出してくださることを、私達の祈りとしたいのです。イスラエルがしたように、ドイツがしたように、荒野を私たちにとって意味ある時と捉えなおしたいのです。

 

今日の箇所で「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)とありました。またⅡコリントには「私たちはみな、・・・主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(Ⅱコリント3:18)ともあります。

 

この箇所より、「私達の約束の地とは、神ご自身であり、キリストご自身です」というメッセージを聞いたことがあります。忘れがちなのですが、神に救われ、神の子とされた私達には、神を深く知り、結果神の子キリストに似せられるという大切なゴールがあるのです。

 

約束の地カナンには豊かな果実があったのとありますが、果実と聞いて、私達が求めるべき豊かな実があることを思い起こしました。『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』ガラテヤ5:22~23

このようなものが私達のうちに生まれるなら、私達がキリストに似せられるなら、それは決して無駄な時ではなかったと言えるのではないでしょうか?

 

荒野では何に価値を置くかで、荒野の意味合いが変わってきます。荒野での過ごし方が変わってきます。

でも、私には無理・・・そう感じていませんか?先ほどのⅡコリント3:18はこう続きます。「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

神は荒野でこそ、よりあなたに関わってくださる方です。この神に心と祈りを向け、あなたの内に新しいものが生まれる一週間となりますように。

 

今週の黙想御霊の実の中であなたの必要は何ですか?「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

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