2月14日のメッセージ

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牧師家族が出させていただいたラジオは以下のURLの「世の光いきいきタイム」で聞けます。
次週以降はバックナンバーとなります。
2021年2月14日「困難の時に知っておきたい聖書28」
<聖書 マルコの福音書>
12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
<ファミリータイム 出エジプト記>
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。 20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。 20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
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32:15 モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。 32:16 板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。
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32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。
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34:1主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。
<十戒とは、命令とは、恵み>
コロナ対策の特別措置法が昨日より試行されました。「過料」や「命令」など、今までの「要請」よりも強い内容です。少し振り返ってみたいのですが、私達はこの1年、何によって自分の行動を変えましたか?政府からの自粛要請でしょうか?周囲の目や同調圧力でしょうか?もちろん様々な理由があって良いと思うのですが、私個人としては、医療や福祉の現場で精一杯対応している人の姿を見聞きした時でした。頭だけでなく、心で、行動を変えなくてはと、感じたからです。
幼稚園でこども達と関わる時もです。教育では、きまりだから、とか、他のみんなもやっているから、とか、あなたにとって大切だから、などと説明するのですが、やはりそのこども自身が、その行動の意味を感じとり、身体で腑に落ちて、自分の心で決めてはじめて、本当の意味で、行動が、生き方が変わるのだと感じます。
自分の心で感じること、自分の意志で応えていくことが大切なのです。
<恵みに生きるための戒め>
 私達は聖書や、その中に記された十戒は行動を縛り規制するもの、不自由な、ネガティブなもの、そう理解していないでしょうか?
ところがユダヤ人は、そうは理解しませんでした。神の愛の現れ、そう理解したそうです。
十戒はこう始まります。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト記20:2)
これを守ったら、エジプトの奴隷から解放してあげよう。これができたら海を分けて軍隊から救ってあげよう、言うことを聞いたらマナを降らし、水を飲ませよう、ではない。先にエジプトから連れ出し、先に海を分け、先に飢え渇きを満たしたのです。最初に救いがある。常に神の恵みが、救いが先行しているのです。
救われるためにでなく、神の子になるためにではなく、救われたから、神の子になったから、新しく生きるのです。
私達は私達の考える「宗教」とイエスの語る「福音」との違いを間違えないようにしたいのです。
宗教は、これを守らなければ救われない、と迫る。
一方、福音は、救われたから、喜んで守るのです。
救いと戒めとはセットです。戒めとは、すでに入れられた恵みから迷い出ないためのもの、神の子として新しく歩むためのガイドライン。救われた者の、新しい生活様式だからです。
旧約聖書学者のJ.エレミアスは教えました。聖書の山上の説教のあらゆる命令の前に、「あなたは救われた」をつけなさい、と。私は救われた。だから、迫害する者のために祈り、悪を避け、惜しまず分け与えるのだと。
<イエスの戒め>
十戒をはじめとした聖書の命令は、それぞれの時代・文化・状況において具体的に示されましたので、文字通り今日に適用しずらい時もあります。しかし、イエス様は今日読んでいただいた、マルコ12:29~31で分かりやすく要約してくれています。使徒パウロやヤコブもまとめました。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。 ローマ13:9
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。ガラテヤ5:14
ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。ヤコブ2:8
ただ、あれをしてはいけない、これはダメだ、ではないのです。
神を愛せよ。自分を愛せよ。自分を愛するように、人を愛せよ、その心で生きよ、これが神の命令です。
アウグスティヌスは言いました。「まず神を愛せよ。その後に汝の欲することを為せ。」
神と人を、そして自分を愛することは、恵みの中で生きる、迷い出ないための指針なのです。
<愛することに失敗しても>
ただ、私達はしばしば愛することに失敗します。
神を忘れ、人を憎み、妬み、拒む。自分自身を大切に出来ない、それが私達です。
すぐに、自分が神に愛されたこと、神の子であることを忘れ、恵みから迷い出て、苦しく空しい方向へと向かってしまうのです。
ユダヤ人たちも神を愛することに何度も失敗しました。今日の場面では、あっという間に自ら「金の子牛」という神を作り出しました。
モーセは、怒り、失望し、あなたがたは神を捨てたのだ、恵みをないがしろにしたのだと、石板を割ります。
しかし、神から再び石板が与えられるのです。何度失敗しても、あなたはもう救われている。あなたはこの道を歩めと、神様が差し出してくださいました。
イエス様は、自分を裏切るペテロのために祈りました。(「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:42)、
私達の前にも、後ろにも、神の赦しと救いがいつもあるのです。イエスは、ただ「人を愛せよ」とは言いませんでした。必ずその前に「わたしが愛したように」とつけたのです。そして、十字架にかかりました。
 私たちはまず、無限に赦され、無限に愛されたのです。
 そして、神は何度でも、何度でも、私達の前に石の板を差し出すのです。
「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ30:21)と。
 敢えて言いますが、何度失敗してもいいのです。恥ずかしくても、情けなくても、けっして自分を諦めないでください。あなたが自分をどう見るかでなく、神が自分をどう見つめてくださるのかが大切なのです。忘れないでください。どうか忘れないでください。どれだけ失敗を重ねようが、あなたは神の子です。すでに赦され、救われ、生かされています。
<今週の黙想>
今日のあなたにとって神を愛すること、人を愛すること、は何でしょうか?応えてみてください。

 

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