2月7日のメッセージ

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2021年2月7日「困難の時に知っておきたい聖書27」

 

<聖書 ヤコブの手紙5章15~16節>

5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 

<ファミリータイム 出エジプト記>

17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。 17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。 17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。 17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

 

 

<究極のリモートワーク>

幼児園では、ご家庭のリモートワークが増え、朝の登園にお父さんがこどもを送ってくれることも多くなりました。幼児園で三密の極みのような仕事をしている私には、リモートワークというものは輝かしく見えます。今年のサラリーマン川柳には『リモートで 不要不急に なる職場』という作品もあり、新しい時代を感じます。

 

ところが、緊急事態宣言を受け、教会も出来る限りリモートで活動しています。(先日は電話中継も。何事も挑戦ですね。)もちろんZOOMを使っての礼拝ができることは嬉しい。毎週の支えです。同時に、オンラインの限界も当然あり、申し訳ない気持ちに落ち込むこともあります。そんな時、「祈りは究極のリモートワーク」という文章を読みハッとしました。

まだ出来ることがあるじゃないか、いえ、何より中心的なことがあるじゃないか、嬉しくなりました。いつも忙しくしていたイエス様、同時にいつも人々から離れ祈っていました。何もできないじゃない、何より大切な仕事があるのです。

 

<とりなしの祈りを必要とする私達>

荒野でアマレク人の攻撃を受けイスラエルは初めての戦いを経験します。指導者モーセは80歳。大切な人々を守りたくても、戦場では邪魔になるだけです。では、どうしたか?モーセは丘の上で手を上げるのです。手を上げるとは、「祈り」を意味します。神がヨシュア達を助けてくださるように祈ったのです。(他者のために祈ることを、とりなす、と言います。)

そして「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」(17:11)のです。

 

教会で良く聞く「祈っていますよ。」はただの挨拶ではありません。イエス様は頼まれてもいないのに、自分を裏切るペテロのために祈りました。(「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:42)、

自分を十字架にかけた人々のために祈りました(「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34)。

預言者サムエルは人々に「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」(第一サムエル12:23)と語りました。

 

私達が神の憐みを必要としないくらい優れた人間なら誰かに祈ってもらう必要ありません。また、神が私達に無関心なら、祈っても意味がありません。しかし、私達が認めようが認めまいが、私達人間は神の憐みと助けを日々必要とする存在なのであり、神は熱心に関わってくださる方です。

 

コロナ禍において、「祈っています」ほど、嬉しい言葉はありません。人との距離が必要な状況において、人とつながりを感じますし、うつむき意気消沈する時に、天とのつながりを思い起こさせてくれます。

もちろんアマレクとの戦いの場面のように、祈れば優勢で、祈りが止まると劣勢で、とは全ての状況において単純に当てはめることはできないとは思います。しかし、誰かに祈られずして、神の憐みを抜きにして、この状況を信仰者として歩むことはできません。私達は祈りを、神の憐みを常に必要とする存在であり、今は特に祈りを必要とする状況です。

 

 

<神と人の前に自分を開く>

ヨシュア達のために祈る、モーセ。しかし、80を超える年齢で、さすがに疲れてきます。最後には力なく石に腰掛け、手を両側から支えてもらう。自分よりも高齢のアロンに介助されている。なんとも弱弱しい姿です。

指導者としてのカリスマ性にかけ、支持率も低下しそうな姿。しかし、それでいいのです。神は自分自身の力にのみ頼る人を用いません。私達は神を必要とする者であり、互いを必要とする者だからです。

 

モーセは一人では手を挙げ続けることが出来なかった、一人では祈り続けることが出来なかったのです。(もちろん体力面もあるでしょうが)私達もまた同じではないでしょうか?疲れ、諦め、疑いなどにより、神に心を向けることが出来ない、人のために祈ることが出来ない、続かないのです。

 

そこでモーセは人を頼りました。自分一人で大丈夫と見栄を張ることはなかったのです。自分を他者に対し開くこと、私を支えてください(私のために祈ってください)と言えること、それもまた強さだと思います。「祈りの手を上げる」という表現がありますが、神に対して祈りの手を上げることももちろんですが、私のために祈って、と祈りを求める手を上げることが出来たのです。

聖書には「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)とあるのです。誰にもまさって賢かったとか、健康だったとか、美男子だった、雄弁だった、ではなく、謙遜だったとあるのです。

もちろんそのことで侮られ、周囲から好き勝手言われています。しかし神は、自分を飾らず、自分を誇らず、ただ正直に神と人に頼るモーセの姿勢を喜びました。そして、モーセの祈りを喜んで聞き届けてくださったのです。

 

イエス様も十字架にかかる前の夜弟子達に言いました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(マタイ26:38)

主イエスですら、神ご自身が人間のとりなしを、必要としたのです。自分を人間に対しても開いてくださったのです。私達が見栄を張る必要はありません。

 

 

<とりなし、とりなされ歩む>

わたしたちはすでにキリストの十字架によってとりなされたので、自分の救いを確信することが出来ます。

「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」イザヤ53:12

「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」ヘブル7:25

 

また、今この瞬間も義の方であるキリストは私達のためにとりなして祈ってくれているので、日々を恐れずに歩むことが出来ます

(「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ローマ8:34)

 

そして、教会の仲間にとりなされ、今があるのです。

ですから祈りにおいて、歩みにおいて、人のためにとりなして生きるのです。

 

 

<今週の黙想>

あなたがとりなすべきヨシュアは誰でしょうか?一週間その人のために集中して祈り、具体的に励まし、支えてください。

あなたが支えてもらうべきアロンとフルはいますか?支えを頼んでみてください。

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