1月31日のメッセージ

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2021年1月31日「困難の時に知っておきたい聖書㉖」

 

<聖書 マタイの福音書>

4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。 4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。 4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 

<ファミリータイム 出エジプト記>

16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。 16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」 16:4 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。

 

17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」・・・17:5 主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。 17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。 17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

 

 

<荒野を歩む私達>

ニュースで「ケア」や、「レジリエンス(復元力)」という言葉を耳にするようになりました。COVID-19によるパンデミックも災害であり、私たちはある意味ではみな被災している、という視点も聞きます。もちろん自然災害のように目に見えませんし、大きな被害を受けた方々のことを考えると、同じ被災者と言うのは申し訳なく思います。しかし、影響は一人一人同じではなくとも、世界中の誰しもが、何かを失い、何らかの痛みを負っているのです。そのため今後も歩み続けるためにも、誰しもがケアを必要としているのです。

 

あえて、聖書の場面に重ねるならば、今私達は、個人としても、教会としても、社会としても、荒野の旅をしているような状態です。今日の場面では、イエスも、モーセ達も、荒野にいます。キリスト教では<こうや>ではなく、あえて<あらの>と特別な意味を込めて読みます。荒野は乏しい場所、試練の場所です。私達の内側が明らかにされる場所、私達のあり方が問われる場所です。

私達は、荒野の中で、どのように話し、どのように振る舞うでしょうか?荒野を旅するユダヤ人の姿は、まさに今の時代を生きる私達の姿を映す鏡なのかもしれません。

 

<荒野で心を失うわたし達>

今日のこどものお話しで、ユダヤ人は飢え、渇きました。そして、神やモーセに対してつぶやきました。

飢餓症状や、脱水症状になってからでは文句も言えませんので、食料や飲料水の蓄えが減り、不安や焦りの中でつぶやいたのでしょう。「つぶやく」という意味の「Twitter」が、ありますがここではより攻撃的です。

16:3、17:3でのつぶやきは、「私たちを殺す気か!なんてひどい神だ!」といった文句、非難でした。たくさんの奇跡を目にしたのに、多くの愛情を注がれたのに、モーセのおかげで奴隷から解放されたのに、都合が悪くなると手のひらを返し、豹変し、神を、モーセを非難したのです。

私達は状況が悪くなり余裕を失う時、人への感謝や配慮ができなくなります。なにより、一番大切な神への信頼が消し飛びます。

 

同じような状況で、飢えていたイエス様は、悪魔に誘惑されました。その時キリストは答えます。

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」マタイ4:4

昔からピンときませんでした。生命を保つためにもパンは欠かせません。キリストだからそんなこと言えるんだ、私はそうは思わない。

けれども、キリストが引用した箇所を読んでみて少しだけ意味が分かりました。それは今日の荒野での飢えを背景に神が語った言葉でした。

「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」申命記8:4でした)

今日のユダヤ人の言動を見ていて気付かされるのは、彼らは肉体以上に、心や魂が死に瀕していたということです。悪魔に魂を売った、とまでは言わなくとも、悪魔の思うままです。

 

私達はどうでしょうか?不安や怒りに心が満たされ、神に素晴らしくつくられたはずの人間性や自分のあり方が失われることはないでしょうか?心を悪魔に向けて手放したかのように、自己中心になり、人や神に牙をむいたり、失望し歩みを止めることはないでしょうか?

私達は苦境に立つとき、生活や生命を案じます。同時に心や魂をも死んだようになっていないか、心配したいのです。(それは神との関わりと、人との関わりに顕著に表れます。)私達にはケアが、レジリエンス(復元力)が必要なのです。

 

<荒野に降る天からのパン>

イエスはパンが必要ないとは言っていません。けれども、本当の意味で生きるなら神の口から出る言葉が必要だ、というのです。

私達は肉体だけの存在ではありません。心とも、魂とも、霊とも言われるものを持ち、身体と心で1つの人間です。「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)とあるように、天と地の両方によって出来ています。

 

ですから本当の意味で生きるには、地のものだけでなく、天からのものを受けなくてはなりません。

そして、使徒ヨハネは、この神の言葉こそ、イエス・キリストだとし、(ヨハネ1:1~3)

私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」・・・イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。ヨハネ6:31&35

と記します。イエスキリストこそが、天からの糧です。

 

今日は約1年ぶりの聖餐式です。聖餐式とはまさに飢え渇く私たちへの荒野でのマナです。これは「見える説教」と呼ばれます。キリストが私達のために十字架にかかり、血を流した記念であり、神の燃えるような愛の表現です。キリストの割かれた身体、流された血は、地上のものでは、人間では決して与えることが出来ない魂の糧です。

介護施設での訪問聖餐式、そこは荒野のような場所です。施設の方々の誠実なケアは救いですが、やはり寂しく、乏しく、地の楽しみさえも少ない場所です。ラウンジでは、時間や環境もあり、説教も賛美も出来ません。お話しを聞き、小さな聖餐式を行うだけです。けれど利用者の方は、私が式文を読む前に、顔をくしゃくしゃにして、涙を流し「イエス様ありがとうございます。」パンと杯をむさぼるように受ける。その日が雨で、照明も控えめだったせいもあるでしょうが、地が「あなたなど生きる意味もない」と語りかけるような寂しく暗いラウンジに、天から「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という神の声が響き渡るかのように感じました。天からマナがその人を生かしている出来事でした。

 

生きている限り、個人的としても、家族としても、教会としても、荒野を通る時があります。ただ、覚えていてください。荒野は苦しみの場所であると同時に、神が共にあり、天からのマナが降る場所でもあります。

睡眠や休息、栄養ある食事、心の楽しみと言った地上のケアも必要です。同時に、天を仰いで祈り、聖書に現れる神の言葉を心に受け止め、賛美し、神の用意された道を歩むこと(ヨハネ4:32~34)が、私達の天からの糧です。悪魔に魂を譲らず、天からのレジリエンスを受けつつ、地に足を付けて、新しい週も歩めますように。

 

<補足:岩からの水であるキリスト>

同じように、岩からの水も、キリストを表します。「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」Ⅰコリント10:4

飲み水はありつつも、心と魂が飢え渇き、結婚と離婚を繰り返す女性にキリストは言いました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:13~14

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