1月17日のメッセージ

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2021年1月17日「困難の時に知っておきたい聖書㉕」

 

<聖書 イザヤ書>

43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。 43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 

<ファミリータイム 出エジプト記>

14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、 14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。 14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。 14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 

 

日本で、コロナウイルスの感染確認がされて、1年が経ちました。今後も長期戦になりそうです。偶然見かけた「共に乗り越えよう」というフレーズが心に沁みました。ただ乗り越えるだけでなく、どんな状況でも、心には愛と希望を持ち、人に仕える祝福する歩みをしていきたいですね。同時に、様々な面(心、生活、健康、経済、人間関係など)でコロナの影響が積み重なり、次第に疲れ、弱り、人への愛も、神への信頼も薄らいでいくような心配もあります

 

<海の中を通ることを許される神>

コロナがなければ・・・問題がもっと少なければ・・・誰でも一度は考えたでしょう。

出エジプト記も同じです。もっと楽に約束の地に着けないものか・・・エジプトの軍隊や、目の前の海や、荒野の旅の、熱さ、飢えや渇き、危険がなければどれだけ良いかと・・・

 

しかし、神が私たちへの愛を語るイザヤ書43章には、水の中を過ぎる時も、川を渡る時も、火の中を過ぎる時も、とあるように、神は困難を許される方です。信仰があるから何も問題が起きないとか、苦労がないとはならないのです。私たちも同じです。神を信じていても、困難に直面します、病を得ることもあります、やがては最大の困難である死を迎えます。

 

海とは古代の人、特に内陸部に住むユダヤ人にとっては恐ろしいものでした。自分の知恵や力の及ばない、大水は混沌の象徴(創世記1:2)、まさに死を意味しました。前方は海、後方はエジプトの軍勢、絶体絶命です。

目の前に広がる海を前にして、ユダヤ人が諦め、神やモーセに文句を言ったように、私達の前にも様々な海があり、その度に諦めたり、歩みを止めたり、信頼するのを止めたりしていまします。

 

確かに、聖書の神は決して私達人間にとっていつも「都合の良い神」ではありません(もしそうであるならご利益宗教と変わりがありません)しかし、神は善い方です。たとえ困難の中を通ることを許されても、困難の中でも共にあり、乗り越えさせてくださいました。困難に遭ったからといって、神が私達を見捨てたのでも、見放したのでもないのです。

 

<海の中に渇いた地を切り拓く神>

神は海や軍勢を遠ざけるのでなく、火の柱としてエジプトの軍勢を身体をはって止めました。その手を伸ばし、海の大水を左右に分け、海の真ん中に「渇いた地」を作り、ユダヤ人が無事に通り過ぎるまで、押さえ続けました。善い方は、愛を誓った人々を守り抜いたのです。

 

私達が信頼するのは同じ神様です。神様は、口だけの方ではありません。マザー・テレサは、「愛は動詞です」という言葉を残しましたが、実際に愛する人々を一生懸命、守り助け導いてくださる方。出エジプト記は、モーセではなく神様が主人公です。聖書で、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:7)と繰り返されるように、モーセをはじめとした人々のために、神様が奮闘する物語です。

今日私達もこの箇所を読みながら思い返したいのです。神は、口だけで愛していると励ますのではなく、私達の目に映らずとも、私たちが感じたり、気付いたりできなくても、神は今日も奮闘しておられると。そして、神を信頼する者が、目の前の大きな困難を、通り抜けたのです。

 

<一度海を通ったから>

もちろんユダヤ人の困難は終わりません。続けて、危険な荒野があり、荒れ狂う川があり、恐ろしい国々があります。しかし、この海を通る体験を通して、不満を言い諦めるだけの人々の中に神への信頼が生まれました。どのような苦しみに遭っても、たとえ痛みを経験しても、神は必ず目の前の葦の海に、「渇いた地」を切り拓き、その真ん中を通らせてくださると信頼し、どんな試練にも折れず、倒れず、傷つきながらも歩き続ける新しい人へと変えられていきました。

 

私達の全ての困難に同じような意味があるかは分かりません。ただ、これからどんな困難があろうとも、葦の海の時と同じように神が共にあり、どんな海をも渡らせ、その先の約束の地に代表されるような、いのちや祝福があることだけは分かります。そして、やがての日、死という海の前に立つときも、の真ん中のかわいた地を歩き、新しいいのちへ歩くことを私達は信じています。

 

なぜなら、私達は1度「葦の海」を神の手によって通っているからです。それが洗礼です。死を通り抜ける体験があるから、どんな困難も、やがて全ての人に訪れる死も恐れません。(第一コリント10章では、この海を通る体験が、洗礼と対比されています)

洗礼式では、洗礼の直前に毎回同じメッセージをしています。少し長いですが引用します。

 

「これから行われる洗礼(水に沈められ、引き上げられる、儀式。キリスト教信仰を表す儀式)は、死と復活の儀式です。

今から志願者は、自分ではない誰かの手により、水に沈められます。死です。私たちは、遅かれ早かれ、死の底に沈み込みます。いえ、死の水の中にすでに沈み込んでいる最中です。その水の凍えるような冷たさの中で、畏れ、不安、失望、恨み、妬み、喪失、怒りに苦しみます。過ち、偽り、罪を繰り返しながら、少しでも浮き上がろうともがいています。やがて心と魂は力尽き、身体は衰え果て、深くて暗い底に沈み込んでいくのです。この死から、逃れられる者はもちろん一人もいません。

 

けれども、洗礼は水の中に沈められて終わりではありません。自分ではない誰かの手により、水の中から引き上げられます。復活です。聖書は言うのです。あなたは一度死ぬ。そして新しい命によみがえるのだと。

 

洗礼の水は私達を殺します。恐れや罪に支配された自分。過ちや偽りを繰り返す自分。愚かで自己中心な古い自分を殺します。そして、清め、新しくされた者としてもう一度生まれ出ます。洗礼の水から引き上げられた私たちは、罪から、恐れから、偽りから、妬みから、自由になっているのです。それらが時に心を支配することがあっても、そこから引き上げられることを知っています。すでに、一度洗礼の水から引き上げられているからです。

 

これからどんなに状況が悪くなっても、失望したり、投げ出したりはしません。神の手が、そこから引き上げてくださることを経験しているからです。

もはややがて訪れる、死さえも死を恐れません。一度死の中に沈んでも、神の手により、永遠のいのちへとよみがえることを、身をもって知っているからです。洗礼を受けたからです。」

 

<目の前の海を渡る>

私達の前にも、大小様々な海が広がっています。あなたの目の前に広がる海(困難)はどのようなものでしょう。水の中、火の中でも、冷たさや熱さに、苦しんでいる人もいるでしょう。

思い出してください。私たちを愛し、私たちに対して熱心な方が、今日もあなたと共におられます。手を伸ばし、身体を張り、「共に乗り越えよう」と私達を守り続けてくれている。その神が共にあるから、決して押し流されず、燃き尽くされず、必ずその先のいのちに至るのです。神に信頼することを、人を祝福することを、けっして諦めないでください。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント10:13

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