12月13日のメッセージ

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<ルカの福音書>

2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

<本当のステイホーム>

もう年末です。今年の流行語が発表され、その中で「ステイホーム」、不要不急の外出自粛要請がありました。一方自治体からは、家が安全でない、家に居場所がない、そんなこどもや家庭もあるので注意を、という通達もなされました。

ある専門家(路上生活者支援ネットワークを主催し、頻繁にメディア等にも取り上げられる奥田牧師)は、「ホーム」と「ハウス」は違う、ホームとは家庭、ハウスとは家・建物であり、今多くの人がハウスはあるが、心のよりどころとなるホームを失っている、と指摘しました。

著書を読みつつ、様々なことを教えられるとともに、自分自身は心のよりどころ、「ホーム」を持っているか、そこにステイホームして、生きる力を得ているか、と考えさせられました。

 

<居場所のなかったキリスト>

2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

劇では「トントントン宿屋さん。どうか一晩泊めてください。どこのお部屋もいっぱいですよ。」「困った困ったどうしよう。」「向こうの宿屋に行ってください♪」という歌があるのですが・・・

よく読むと宿が満員とは一言も書いてない・・・宿屋には彼らのための場所がなかった、とあるのです。

 

7節を直訳すると「彼らのための居場所(ギトポス)は客間(ギカリューマ)にはなかったからである」となります。カリューマいう言葉は聖書に3回出てきますが他の2回は客間と訳されます。当時は知人や親族の家が宿替わりなのです。ところが、故郷であるはずが、親族も知人も多いはずが、誰も出産間近の若い夫婦を招き入れないのです。マリアは結婚前に妊娠した罪深い女と誤解され、マリアと結婚したヨセフも合わせ、不品行をした罪深い汚れた人として、「そんな汚れた人間を受け入れられない!!あなたはうちに入るのにふさわしくない!」と拒絶されたのです。(実際、宗教家が、イエスを「私たちは(あなたと違って)不品行によって生まれた者ではありません。」ヨハネ8:41と揶揄する場面があります。)

 

結果、誰からも受け入れられず、居場所がなく、家畜小屋(おそらく洞窟)に滞在し出産、馬の餌箱が、イエス様のベビーベッドとなりました。マリアもヨセフも、悔しさや、惨めさや、悲しさ、怒りでいっぱいだったでしょう。飼い葉おけ、飼い葉おけ、飼い葉おけと3回出て来る。これは異常なこと、普通じゃないことですよ、という意味、クリスマスはとても悲しいお話しであり、この出来事はこの赤ちゃんの一生を象徴的に現しています。

 

<拒絶への神の答え>

少し、考えてみたいのですが、神様はこの出来事をどう見ていたのでしょう?

イエス様は、人となった神様は、戸を閉ざし、馬小屋の飼い葉おけへと自分を追いやった人々をどう感じていたのでしょうか?(もし私がイエスなら、この恨み晴らさないでおくべきか、孫の代まで呪ってやると思ったり、人が私を受け入れないなら私も人を受け入れない!と、天へ帰ってしまったり?)

 

このクリスマス。キリストは一言も話しません。何の奇跡も起こしません。(赤ちゃんですし)

ある人が、飼い葉おけを覗くと、十字架が見える、と言いました。飼い葉おけと十字架はつながっています。飼い葉おけは、人からの拒絶を意味しています。キリストの生涯は、誤解されること、拒絶されることの連続でした。裏切られ、誹謗中傷され、最後は・・・恥や痛みの象徴である十字架にかかったのです。しかし、最後の最後で、イエスは人々からの拒絶に応えるのです。

 

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:24)生まれた時から拒まれ、生涯において拒まれ、最後は十字架で拒まれる。けれど、神様は、キリストは私達を拒みません。私達を神の子としようと、天の故郷、父の家に入れようと、手を指し伸ばし続けます。キリストは十字架にかかる前の夜に自分の死を指してこう言いました「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2直訳「あなたがたのための場所を備えに行く。)私達のための場所は、父のところにあるのです。

 

しかし、天の故郷を何十年も待たなくてよいのです。以前も「戸をたたくキリスト」という宗教画を紹介しました。最初のクリスマス、ベツレヘムの家々の戸をたたいて以来、キリストは私達の戸をたたき続けています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3:20。

食事をする、とは、あたたかな場所を、暗い心が明るく照らされるような、弱り果てていたいのちが生き返るような、神との関わりを意味します。キリストが内に入る時、ただの「ハウス」であった私達の内側が、いのちに満ちた「ホーム」となるのです。

 

私が知っているある幼稚園、クリスマス劇でこんなことがありました。

宿屋役のこどもが「向こうの宿屋に行ってください。」とセリフを言った後、隣の宿屋に向かうヨセフとマリアに泣いて叫んだそうです。「イエス様行かないで。僕のところに入って。」

 

私達は、戸をたたくイエス様にどう応えましょうか?

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