11月15日のメッセージ

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2020年11月15日「困難の時に知っておきたい聖書㉒」

 

<聖書 エペソ2章8~10節>

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 2:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

<ファミリータイム 出エジプト記>

12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 

 

<壁を作る人、橋を作る人>

コロナ禍の中で、また先日の大統領選挙で、「分断」という言葉を多く聞きました。困難な状況の時、国や人はどうしても自分達の利益を守ったり、主張を通したりすることで精一杯になります。ましてやそこに信仰や信条が加わると、なかなか冷静ではいられません。対話や協力よりも、対立や分断へとつながってしまいます。

「宗教は対立を生むよね。」と言われ、困ってしまったことはありませんか?しかし、以前聞いたことがあります。分断を産むのは、一人一人の違いでなく、文化、言葉、経験、宗教ですらきっかけにすぎず、分断を産むのは、私達の自身の心だと。

 

数年前、移民・難民の問題が深刻化した時、カトリックのフランシスコ教皇は、キリスト教の国へ向けて「信仰者は壁でなく橋を作る」と言いました。私達は壁を作っているでしょうか、橋を作っているでしょうか?

 

今日のファミリータイムの出来事、出エジプトは、ユダヤ人にとって最も大切な出来事です。エジプトが災いに遭い、ユダヤ人は奴隷生活から解放される。喜びに溢れた、出来事です。(そちらの側面は次週お話しします。)けれど、神様はユダヤ人が「壁を作る存在」ではなく、「橋をかける存在」であるために、ただ解放するのでなく、一つのものを要求します。それは、小羊の血でした。

 

 

<ユダヤ人のための小羊>

10個目のエジプトへのメッセージとしての災いは、今までとは少し違います。ユダヤ人は不思議に思ったでしょう。それまでは自動的に区別されてきました。エジプト人だけが、災いに苦しみ、ユダヤ人には全く被害がなかったのです。最後の災いも、今まで通り、自分達を苦しめたエジプトが、今度も苦しむといい、そう思ったでしょう。

 

けれど今度はイスラエルも、小羊の血が必要となります。古代において自分のために何かが犠牲になるというのは、自分に非や罪があることを意味します。

なぜだろう?悪いのはエジプトでは?しかし、イスラエルはその深い意味は分かりません。しかし、分からずとも、神の言葉の通り行いました。そして、神様はその不思議な食事を、一度ではなく「過ぎ越の食事」として毎年繰り返すように教えたのです。

 

誰かの犠牲により生かされ、自由にさせられる。何かがいのちを失うことにより、自分がいのちを得る、それを毎年行い続ける。私は犠牲によって救われたのだ、救われる必要がある存在なのだと毎年味わい、忘れないためです。あまり居心地がいい気はしません。胸に何かつっかえている気がします。けれどその感覚が大切なのです。「だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:9)

 

洗礼準備会で、罪とは、神様のようになろうとすること、自分自身が神様であるかのように振る舞うこと、自分が全てを判断し、自分の意志だけが実現することを願うこと、という学びをしました。

 

もし、ユダヤ人が自分達だけが特別だと勘違いをしたら、自分を誇ったら、それは罪の中にあるのと、神から離れているのと同じです。このユダヤ人達は罪がないから、立派だからエジプトから救われたのではなりません。罪深い人間を神が救う証として、先に恵みを受けたのです。

 

ですから、神様は、ユダヤ人もまた命の犠牲を必要とする存在であること、神の一方的な恵みで救われたことを覚えるために、神と人との前に絶えず謙遜であるために、小羊の血を求めたのです。(実際、ユダヤ人は、信仰的に神から離れる度に「過ぎ越の食事」も疎かにしていきました。)

 

 

<私達のための小羊>

出エジプト記はユダヤ人の体験だけでなく、私達の体験も表します。

 

エジプトの支配から解放は、罪と悪からの解放を意味します。

小羊の血は、キリストの血を意味します。

海の下を通るのは、洗礼の水を通るのを意味します。

荒野での神に頼りつつの旅は、毎日の信仰の歩みを、

約束の地は、約束の神の国を、指し示すものです。

 

ユダヤ人が小羊の地を必要としたように、私達にも別の血が必要です。キリストは十字架にかかる前の夜、最後の晩餐、過ぎ越の食事の席で、自分が十字架で流す血をふまえて言いました。

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。マタイ26:28

キリストが来て初めて、あの小羊の血が、本当は何を意味するかが分かったのです。

 

最後の晩餐の食事を一緒にしたペテロは後に記しています。

あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。第一ペテロ1:18~19

 

宗教改革者マルチン・ルターは、信仰者を「罪赦された罪人」と表現しました。私達は、自分の力ではなく、キリストの十字架によって、神様の一方的な恵みによって救われるのです。

 

対立が起きそうな時、分断が起きそうな時、自分がキリストの血により、赦された存在であることを忘れないでください。常に、キリストの十字架の前に立っていることを忘れないでください。

 

キリストはだれよりもへりくだり、十字架により、神と人との断絶の間に橋をかけてくださいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

私達がキリストのかけてくださった橋により、日々神さまと出会うことが出来ますように。また、私達自身もへりくだりによって、人と人との、また神と人との、橋となることが出来るように、祈っています。

 

<今週の黙想> 日々、キリストの十字架の前に立ち、祈る時間を持ってください。対立を覚える時も、十字架のキリストに向け、私達のために血を流し死なれた神に向けて祈ってください。

 

 

<参考>

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。・・・私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。 エペソ1:5&7

 

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