11月8日のメッセージ

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2020年11月8日「困難の時に知っておきたい聖書21~困難の時、恵みの時~」

 

<聖書 黙示録3章20節>

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 

<ファミリータイム 出エジプト記>

9:33 モーセはパロのところを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると、雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。9:34 パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。9:35 パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである。

10:1 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。

 

 

<『なぜ?』より『なに?』を>

今年も残すところあと2か月です。みなさんのこの10カ月、いかがでしたでしょうか?コロナさえなければ、だれもがそう感じたでしょう。「神様どうして、なぜですか?」「愛の神がいるのならなぜ?」と尋ねたくなります。9年前の震災の時もそう感じました。

しかし、(日本は被害が欧米に比べれば大きくないこともあるでしょうが)、東日本大震災やその他の災害を通して、教会は、大切なことを学びました。神になぜ?と問い詰めるより、神になに?と問い耳を傾けるようになりました。

 

なぜ?という問いは『神義論』と言えます。愛の神がなぜこんな悲しみを許すのかという議論であり、人間が神を信頼して良いのか?神は本当に善い方なのか?など、人が神を判断するのです。人の側に主体があります。

なに?という問は、このことから何を語っておられるのですか?あなたが許された状況で、私は応答として何が出来るのでしょうか?と問うのです。相手に主体があります。私達は聞くのです。

 

「順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを知らせないために、彼(順境)とこれ(逆境)とを等しく造られたのである」(伝道の書7章14節、口語訳)

逆境の時には、文句を言えでも、諦めよでもなく、考えよ。というのです。

旧約聖書で、「出来事」(ダバール)を表す言葉は、「言葉」(ダバール)と同じです。神は困難を通しても、困難の中でさえも、語られる方であることを意味します。ですから、逆境の時こそ、その出来事を通して、その出来事の中で、神が人に、あなた自身に何を語っておられるのか、心を静めて聞きなさい、

 

 

<叫び叩き続ける神>

今日は、紙芝居で10の災いを見ました。幼稚園でも神様がエジプトを懲らしめるお話しのように話してしまいます。でも考えたのです。なぜ10も?1つか2つで、十分ではないか?読んでいて、同じ繰り返しで、少し飽きてくるほどです。しかし、この繰り返しに意味があるのです。

もし、神がファラオを、エジプトをただの敵として考えているのなら、1~2度警告し、あとは滅ぼすことだってできたかもしれません。しかし、神は愛と憐みの神です。

ですから、7章から10章まで、何度も、何度も、神様が繰り返し、繰り返し、モーセを通して、ファラオに語りかけているのです。ファラオが神の語りかけを受け止めるまで、拒んでも拒んでも、何度でも何度でもモーセをファラオのところに行かせるのです。神はファラオに、聞いてほしかった、受け止めてほしかったのです。

 

「神はわれわれの楽しみの中でささやかれ、われわれの良心に語られる。しかし、われわれの痛みの中で叫ばれる。痛みは耳が不自由な世界の人々を覚醒させるメガホンである。」(C.S.ルイス/ナルニア国物語著者)

God whispers to us in our pleasures, speaks in our conscience,

but shouts in our pains: it is His megaphone to rouse a deaf world.  C.S.Lewis

 

<補足>ルイスは「痛みの問題」で私達が直面する痛みを神学的に考察しています。ルイス自身、骨髄ガンの女性と結婚し、すぐに愛する妻を失っています。その体験を『悲しみを見つめて』(N.W.クラーク名義)において記し、『永遠の愛に生きて』で映画化されています。

 

神は私達の周りに悲しみや困難(自然災害であれ、疫病であれ、犯罪や戦争など人間の罪の結果であれ、)が起こるのを、お許しになります。(私達が気付かないだけで、守ってくださっていることもそれ以上に多いのでしょうが)。そんな困難の時の私達の誤った態度として・・・

・神は意地悪い存在だ、神に嫌われているのだ、と神から離れる

・神は役に立たない(都合よく動かない)、神などいない、と神に背を向ける、などがあります。

けれど、神は愛の神であり、私達に関わる神です。離れるのではなく、背を向けるのでもなく、痛みの中でこそ、神に向かいたいのです。思いも文句も、好きに話してよいのです。けれど、最後に必ずしてほしいことがあります。それは口を閉じ、耳を傾けて、聞くことです。

 

キリストは言われます。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3:20

この言葉は、状況に流されて、神との交わりを失おうとする人(教会)に向けて語られました。戸をたたくとは、戸を叩き続けている、の意味です。キリストは、良い時も、悪い時も、戸をたたき続け、関わろうとする方です。これは絵画のテーマにもなる有名な場面ですが、伝統的に、ドアのノブが外側には描かれません。中にいる私たちがどう応えるかが問われているからです。

 

 

<困難の時を、恵みの時に>

困難が他人事ではなく、自分事となった時、わたし達は戸惑います。けれどそれを自分や人を傷つけるのろいの時としたくないのです。むしろ恵みの時としたいのです。

 

先日カトリック司祭の晴佐久神父の「病気なったら~恵みのとき~」という本を読みました。河野進牧師(マザーテレサや賀川豊彦とも関わりのある方)が出会った人々を通して教えられ記した「病まなければ」という詩を読みました。(下部に全文あり)

 

共通して言えることは、困難を通して神と出会うことを通して、神に話し、神から聞くことを通して、普通ならばのろいの時となるような状況が、不思議と恵みの時と変えられていくということでした。

 

私達一人一人はどんな困難に中にあるでしょうか?キリストは一人一人の戸の前に立ち叩いています。自分自身の心に、または、自分が握りしめ閉ざしている領域に、戸を開き、イエス様を招き入れますか?

普段ならば、強情になるかもしれません。けれど、今は神様がメガフォンで叫び、戸をより強くたたく時、わたしたちにとっての恵みの時なのかもしれません。

 

<今週の黙想> 静かな場所と、静かな時間、そして聖書を用意してください。ただ、神様から語られる時間を持ってみてください。

 

 

 

<補足資料>

 

「病気になったら」晴佐久昌英神父

 

病気になったら どんどん泣こう       痛くて眠れないといって泣き

手術がこわいといって涙ぐみ         死にたくないよといって めそめそしよう

恥も外聞もいらない             いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て

かっこわるく涙をこぼそう          またとないチャンスをもらったのだ

自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを

 

病気になったら おもいきり甘えよう     あれが食べたいといい

こうしてほしいと頼み            もうすこしそばにいてとお願いしよう

遠慮も気づかいもいらない          正直に わがままに自分をさらけだし

赤ん坊のようにみんなに甘えよう       またとないチャンスをもらつたのだ

思いやりと まごころに触れるチャンスを

 

病気になったら 心ゆくまで感動しよう    食べられることがどれほどありがたいことか

歩けることがどんなにすばらしいことか    新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか

忘れていた感謝のこころを取りもどし     この瞬間自分が存在している神秘

見過ごしていた当たり前のことに感動しよう  またとないチャンスをもらったのだ

いのちの不思議を味わうチャンスを

 

病気になったら すてきな友達をつくろう   同じ病を背負った仲間

日夜看病してくれる人            すぐに駆けつけてくれる友人たち

義理のことばも 儀礼の品もいらない     黙って手を握るだけですべてを分かち合える

あたたかい友達をつくろう          またとないチャンスをもらったのだ

試練がみんなを結ぶチャンスを

 

病気になったら、安心して祈ろう       天にむかって思いのすべてをぶちまけ

どうか助けてくださいと必死にすがり     深夜、ことばを失ってひざまづこう

この私を愛して生み、慈しんで育て      わが子として抱き上げるほほえみに

すべてをゆだねて手を合わせよう       またとないチャンスをもらったのだ

まことの親である神に出会えるチャンスを

 

そしていつか、病気が治っても治らなくても  みんなみんな、流した涙の分だけ優しくなり

甘えとわがままをこえて自由になり      感動と感謝によって大きくなり

友達に囲まれて豊かになり          天の親に抱きしめられて

自分は神の子だと知るだろう         病気になったら、またとないチャンス到来

病のときは恵みのとき

 

「病まなければ」河野進牧師

 

病まなければ 捧げ得ない悔い改めの祈りがあり  病まなければ 聞き得ない救いのみ言葉があり

病まなければ 負い得ない恵みの十字架があり   病まなければ 信じ得ない癒しの奇跡があり

病まなければ 受け得ないいたわりの愛があり   病まなければ 近づき得ない清い聖壇があり

病まなければ 仰ぎ得ない輝く御顔がある     あゝ 病まなければ 人間でさえあり得なかった

 

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