10月25日のメッセージ

IMG_20201024_204036~2

 

2020年10月25日「困難の時に知っておきたい聖書20~神があれと言う~」

 

<聖書 創世記1章1~4節>

1:1 初めに、神が天と地を創造した。

1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

1:4 神はその光をよしと見られた。

 

<ファミリータイム 出エジプト記>

3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」

3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

 

 

<神なき生き方、神ある生き方>

神を信じていてよかった。最近強くそう思います。コロナ禍のような難しい時期、仕事や生活の様々な課題に直面する時、神が大きな支えになるからです。元々怠け者で根性の無い自分でも、神がいるから、なんとか自分を見失ったり、諦めたり、投げ出したりしないでいられている気がします。

 

「空の空。すべては空。」(伝道者の書1章2節)というが言葉あります。誰よりも豊かで、誰よりも賢いソロモン王様が、神無き人生の空しさを記した反面教師的内容と言われています。

そこには神の存在も、永遠の存在もありません。もし、私達が偶然生まれだけの意味のない存在だとしたら・・・もし、私達が生きるべき目的など本当は何も存在しないとしたら・・・もし、死の後、私達はただ塵に帰るだけだとしたら・・・

どうせ空しいのだから、空の空なのだから、結局は死んで終わりなのだから、とにかくこの地上を楽しめ、というのです。実際に、ソロモンのように考える人も少なくないでしょうし、ソロモンと同じでなくても、自分なりの考えをもって神さま抜きで生きていける場合もいるでしょう。

 

しかし、物事がうまく進まない時、挫折や喪失を味わう時、痛みや弱さを抱えた時、空の空である人生は、どうなってしまうのでしょう?それは私たちとも無関係ではありません。こどもタイムのモーセは、宗教教育を受け神についての知識は知っていましたが、深くは神を知らず、その心は神を忘れていました。

 

 

<ないという人間、あるという神>

神から離れ、人生に失敗し、異国の地にいた年老いたモーセ(80歳)も考えたかもしれません。「自分の人生は何だったのか」「何一つ成し遂げられなかった。」「いったい何の意味があったのか」と・・・

神という視点が、永遠という視点がなければ、モーセの人生は確かに失敗し空しいものかもしれません。

 

(私の祖母はクリスチャンですが、小さい頃祖母の本棚で「巨人モーセ」という本がありました。幼い私はずいぶん背の高い人なんだろうと思い、後に立派な人なんだろうと考えました。けれど、こうしてみるとモーセはわたし達と似たような面もあったと気が付きます。)

 

人は4つの言葉を聞くと言われています。1.自分の言葉、2.人の言葉、3.悪魔の言葉、4.神の言葉。もちろん、自分の言葉も、人の言葉も大切です。しかし、この場合それらはモーセを苦しめました。

 

しかし、「ない、無い」「空っぽだった」そうつぶやくモーセに神は現われ、「ある」と語るのです。

私なんていても意味が「ない」というモーセに対して、あなたには使命が「ある」と励まします。

私なんて何もでき「ない」というモーセに対してわたしが共に「ある」と励まします。

そして、あなたの名は?と尋ねるモーセに、神は自分の名を始めて人間に明かすのです。その名は、「わたしは『ある』」という不思議な名でした。ヤハウェ(旧約聖書では太字の主で表記)とも言います。

 

名というのは存在そのものを表現します。聖書でも名を尋ねる場面がありますが、名を知らせるということは、相手にたいして自分を開き、相手と深く関わるという意味があります。キリストが名を尋ねる場面が多く出てきますが、まず最初に神はモーセに、そして私達に、ご自分を、開き、明らかにされたのです。モーセにとって、私たちにとって、その名は大きな意味を持ちます。神無き人生に、神を忘れた人生に、無駄だった、空しい、空っぽだった、そう考えている日々に光を照らすような言葉です。

 

 

<あれ、という神>

この世界は、「わたしはある」という方の、「あれ」という言葉で始まりました。

「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」創世記1章3節

(日本語なら「ある」英語なら「Be」を意味する同じ言葉です。)

それが文字通りだと考える人も、ビッグバンだと考える人もいるでしょう。しかし、大切なのは神の意志が働いていること、神に「あれ」と言われてこの世界が存在していることです。

モーセも、「モーセよあれ」と言われて、その父と母を通し3500年ほど前にエジプトに「ある」ようになりました。そしてモーセ自身が、失敗だったと思う80年間にも実は背後に神のご計画があり、自分は役立たないと思っていたモーセにあなたには使命があると語ります。

モーセは何度も何度も「ない」、「ない」と逃げだそうとしますが(あの巨人モーセがです!)、神は「ある」「ある」としつこく迫ります。そして、モーセの心や歩みが「ない」という方向に向かうたびに、神の「ある」という言葉によって方向修正されていきました。

 

私達一人一人も同じです。「○○よ、あれ」との神の言葉で、神の願いで、この世界に生まれました。

さらに言えば、「神はその光をよしと見られた。」(創世記1章4節)

そして、「○○よ、あれ」という神の意志で、今も生きています。

 

一時のモーセのように、神を忘れて生き、「ない」「ない」と自分にも人にも言っていませんか?

もちろん、モーセが体験したように、失敗や苦労もあるでしょう。

しかし、すべては空・・・ではないのです。私達は神に「あれ」と願われ存在し、私達の生涯には神の愛に満ちた深いご計画が「あり」、私達の毎日と神は共に「あり」、私達は死後に天の父永遠にともに「ある」ようになるのですから。

そして、この世界に「あれ」と言ってくださっている方がいると、全ては空しいのではないと言葉で行動で示すこと、それがモーセや私達に与えられた大切な役割です。

 

<今週の黙想> 神の「わたしはある」、そして「〇〇よあれ」という言葉を、朝毎に思い巡らし、どんな時も心に響かせて、あたらしい週を歩んでみてください。

Top