10月11日のメッセージ

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2020年10月4日「困難の時に知っておきたい聖書⑲~あなたの支えは何?~」

 

<聖書 新約聖書イザヤ書43章1~4節>

43:1・・・「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。 43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。・・・43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 

<ファミリータイム 出エジプト記>

2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。 2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。 2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。 2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。

 

3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。 3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。 3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」 3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。

 

<失う時に問われるもの>

「信仰の有無に関わらず、困難に遭う。しかし、困難の時こそ、信仰が、神が支えとなる。」そんな言葉を聞いたことがあります。

何も持たずに生まれてきた私たちは、次第に力や能力、立場や評判、様々なものを得ていきます。そして、それらを持つこと(Having)を自分の支えとします。多くを持つ人は、評判が良く、頼られるでしょう。

しかし、遅かれ早かれ、いつかはそれらを手放す時が来ます。状況の変化、失敗、そして老い。それらを通し、自分の手にあったものが、自分を支えていたものが失われていくのです。

収入を失い、健康を失い、立場を失い、関係を失い、力を失う・・・それは同時に自分の心、魂の支えを失い、不安定になることを意味します。

コロナに代表される様々な困難、日常の様々なストレス、その中でもしなやかで周囲の支えや祝福になる人と、不安定になり周囲の呪いとなる人がいます。残念ながら、困難に遭うのは避けられないようです。だとしたら、何かを失う時、失いそうな時、今この時わたし達が何を支えとしているかが問われてきます。

 

<失ったモーセ>

モーセはエジプトの王女に拾われ、王子の一人となっていました。エジプトの大臣となったヨセフのように、社会的立場があり、イスラエルの危機を救うチャンスがありました。しかし・・・

同胞を救おうという気持ちが空回りし、殺人をし、死体を埋めます。モーセは力が強かったのかもしれません。知識だってあったでしょう。しかし、自分の力や考えに頼った結果がこれでした。

それが明るみに出ると、ファラオに追われ、同胞の信頼も得られず、エジプトから逃亡します。やがて、ミデヤン人つまり異教徒と結婚する。(後に祭司となるレビの家系なのに、ミデヤンの祭司の娘と・・)

神に応えるべき立場から、どんどんと落ちて行く。転落の人生です。立場を、力を、若さを(なんともう80歳)、失います。そして、異国で、誰からも忘れ去られた。信仰の失敗者でした。

<力無きモーセの名を呼ぶ神>

モーセのように、私には何もない、私は失敗者だ、私は何もできない、そう考えることはありませんか?しかし、神様のお考えは違うようです。神はモーセの名を呼ぶのです。そして、今日読んでいただいた聖書の箇所これは立派な者へのご褒美の言葉ではなく、力のない者に、立派な歩みが出来ない者に、自分を信じることも認めることも出来ないようなものに、神が語りかけられた言葉です。私達の神様は力のない者の名を呼ぶ方です。

保育で話すのですが、何が出来るか(Doing)ではなく、何を持っているか(Having)ではなく、こどもそのもの(Being)を喜び尊ぶ。幼稚教育の基礎はキリスト教のこども観ですので、信仰もまた同じだと思います。私達は神の子として、赤子のように力ないまま名を呼ばれ尊ばれるのです。

モーセという名は、水(死)の中から引き上げられた(モシュ)という意味の言葉です。しかし、この場所では、失望や諦めや罪の中から、神によって再び引き上げられ、救い上げられたのです。

 

<謙遜という資質>

なぜモーセなのでしょう。一時はエジプトから逮捕命令も出た人物で、最もふさわしくないはずです。適任者なら他にもいたはず。それなのに神様は、失敗をしたモーセ、全てを失ったモーセを呼ぶのです。それは決して同情ではありません。失った者こそが適任だったのです。

 

もちろんモーセにも良い面は多くあったでしょう。エジプトの英才教育も受けていました。しかし、それらを用いても、出エジジプトは到底無理でした。(実際に殺人と死体遺棄で終わりました。)

ある牧師さんが、失敗や老い、それ自体は喜ばしくないかもしれないが、神の善い計らい、恩寵、でもあるのです、と教えてくれました。モーセは失敗を知っている人でした、全てを失った人でした。頼るもののない人でした。だからこそ、神に頼る人でした。

 

モーセは、状況に苦しめられても、周囲に苦しめられても(身内や民から散々好き勝手言われていましたが・・・)神に頼り続けた。神と人に仕え続けた。聖書はこう記しています。「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)

神が求めているのは、強い人でも、賢い人でもなく、神と人の前に謙遜な人です。失敗がなければ、モーセは出エジプトの大役を担えなかったのです。

 

<小さなモーセとして>

もちろん私たちとモーセは違います。けれど、この出エジプトは決して私達と無関係ではありません。

エジプトの奴隷生活は、罪と悪による支配を。小羊の血はキリストの十字架の血を、葦の海は洗礼の水を、荒野の旅は信仰生活を、約束の血カナンは天の御国を表しています。

私達もまた、モーセのように死から、失望や諦めから、引き上げられ救われるのです。そして、誰かを失望から希望へと、罪と死の奴隷の中から神の国へと連れ出すのです。(小さな出エジプトです。)

それは、自分の力では不可能なのです。神様を支えとし、神様と共に歩むのです。

 

「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」第二コリント12:9~10

私達は小さなモーセとして、小さな出エジプトのために、それぞれの場へと出て行きます。そこで、私達が何に頼っているか、何を支えとしているか、それが祝福となるか、呪いとなるかの分かれ目なのです。私達自身が罪や失望から引き上げられ、まだ私達を通して他の誰かもまた引き上げられる、そんな1週間となりますように、祈っています。

 

<今週の黙想>イザヤ書の箇所を朝ごとに読み、神こそを自らの支えとし、歩み出してください。

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