10月4日のメッセージ

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2020年10月4日「困難の時に知っておきたい聖書⑱~状況が変わっても変わらないもの~」

 

<聖書 新約聖書ヘブル人への手紙12:28>

このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。(新共同訳)

 

<ファミリータイム 創世記>

1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。 1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」 1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。 1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」

1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」 1:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。 1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

 

1:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。 2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。 2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。

 

 

<新しい状況の中で、大切なこと>

最近、ニューノーマル、新常識、という言葉盛んに語られます。学校にも、職場にも、そして教会の礼拝や宣教にも、様々な変化が求められています。特にデジタル化でしょうか。そして、顔と顔を合わせて集まることを大切にする教会は、高齢化が進むキリスト教界は、今回の新しい環境・状況に対してとても弱いのです。)

私達はどう対応しましょうか?これも時代の流れだと、諦めましょうか?流れに上手に乗る方法を模索しましょうか?それならばと別の道を探しましょうか?

コロナを含め、新しい状況に対して、私達一人一人は、また教会は様々な対応をするでしょう。けれど、その際に、大切なことがあるのです。それは神を畏れる心です。神を畏れる心を持って、目の前の状況に向き合うのです。

 

<神の民が直面した新しい日常>

イスラエル人は「ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。」(1:8)という新しい日常に直面します。今までエジプトの王(ファラオ・パロ)や人々は、ヨセフのおかげで国は助けられた、ヨセフの神は素晴らしい、ヨセフの家族、子孫を大切に保護しよう、そう思っていました。しかし、ヨセフの事を知らない世代が、王が誕生し、イスラエル民族の存在が邪魔になってきたのです。状況が変わったのです。そして、新しく生まれた男子を殺せという、ファラオの命令に従うように、ファラオを畏れるように、迫るのです。

 

<何を畏れるか、何に影響されるか>

「恐れる」と聞くと、恐怖や怯えをイメージするかもしれません。ですから共同訳の「畏れる」のほうが意味を理解しやすいでしょう。畏敬の念を持ち、その存在を重んじ、行動が導かれるのです。

ユダヤ人にとって、神を畏れるとは、感情ではなく、行動や言動など、全てを指します。助産婦たちにとって、神を畏れながら、ファラオに従い、男子の赤子を殺すことはありえないのです。彼女たちは新しい状況の中でも、神を畏れることを第一としたのです。

なぜ、彼女たちは男子を殺さなかったか。もちろん可愛さもあるでしょう。倫理的にも、民族的にも正しくないことでしょう。しかし、人間はいざとなれば何でもする存在です。新しい状況に従い、流されたほうが楽かもしれません。不利益だってあるでしょう。もし、ファラオが脅迫ではなく、誘惑という方法を使ったら?言うことを聞いたら、あなたたちを豊かにしてあげようと迫ったら?それでも決して神を畏れるという選択は変わりません。

そこには彼女たちの信仰がありました。ある牧師が話してくれたのですが、新しい状況の中で、それが難しい状況の中なら、私達の信仰が問われているのです。

 

私達は新しい状況の中で、何を大切にしているでしょうか?何に行動が導かれているでしょうか?それとも神以外の何かでしょうか?自分の感情、好ましい結果、優れた方法論、人の意見、経済、健康・・・もちろんそれらは大切な善いものです。しかし、時にそれらはわたし達を誤った方向に導きます。

ドイツという国があります。一般的に堅実で思慮深い国というイメージがあります。宗教改革も起こった、キリスト教の国です。しかし、第一次世界大戦で敗れました。人々は、敗戦という新しい状況の中で、復興や繁栄を願いました。そして、自分達に良い結果をもたらしてくれそうな一人の人物を祭り上げます。ある意味で、その人物を畏れたのです。その人物の名は、アドルフ・ヒトラーでした。

 

<神を畏れる者への祝福・神を畏れる者が流す祝福>

助産婦やモーセの母が守ったのは、こどもの命だけではありません。神のご計画を守ったのです。イスラエルを通して、世界を祝福するという願いが神にはありました。神はモーセを通して、民を救おうとされました。もし、諦めていたら、祝福はそこで止まってしまいます。

ある教会は、一年をかけて準備していたクリスマス行事が全部ストップしてしまったと聞きました。さぞや落ち込んでいるかと思いきや、みんなでトラクトを作って、いっぱい配るんだ、コロナで生きる希望を失っている人に神の希望を届けるんだと意気込んでいました。

その時、この助産婦たちやモーセの母を思い出しました。今までと状況が違い、同じことはできないかもしれません、しかし、私達は神の祝福をとどめてはならないのです。

そして、「神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。  助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(1:20~21)神に導かれるなら、神は放っておかない。そのことを忘れないでください。以前こんな言葉が外国の教会にかけてありました。「あなたが動く、あなたが働く。あなたが祈るなら、神が働く。」神を畏れ生きるなら、神は必ずよくしてくださるのです

 

<恵みの信仰に生きる>

先ほど、信仰が問われているという話をしましたが、そこでは私達の信心深さは問われていません。神の恵みへの信頼こそが問われているのです。ファラオの命令の中で、女性たちを支えたのもこの信仰ではないでしょうか?

「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(ヘブル12:28新共同訳) 神を畏れたら神に祝福される、それはカルト的な理解です。そうではなく、神にすでに祝福され愛されているから、応答として、神を畏れ、敬い、大切に生きる。常に神の恵みが先行するのです。

エルサレム教会は、迫害で散らばりました。コロサイ教会はパウロから手紙を受け取って数年で大地震により散らばりました。しかし、神を畏れる教会は、新しい状況の中でも決してなくなりません。神の恵みを覚え、場所を変え、状況を変え、神を畏れ、祝福を流し続けました。

困難な時こそ思い出してほしいのです。あなたは(教会は)神に命を与えられ今日も生かされ存在していることを。十字架によって赦され、永遠の命を与えられ(あるいは目の前に差し出され)、神が今日も共にいることを。私達の毎日が、教会の毎日が、恵みへの応答として、神を畏れる歩みでありますように。

 

<今週の黙想>あなたの状況の中で、神を畏れるとは、どういう行動でしょうか

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