26日の礼拝メッセージ

cb9543237fa9bb7972a49db28cf63323

26日のメッセージです。
礼拝はZOOMで行っています。
参加希望ご質問などはbig-small@willcom.comお願いします。

<聖書:ヨハネの福音書>
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。 20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

<平和の挨拶>
幼いころ、親族で唯一クリスチャンだった祖母に連れられ、川崎の聖公会(英国国教会)の聖パウロ教会に行ったことがあります。礼拝の途中で、参加している方々が、「主の平和」と前後左右の方に、立って挨拶をする場面がありました。
「主の平和」、という不思議に心温まる挨拶が気に入り、手紙やメールの末尾に使っています。私達は心にも、生活にも、人間関係にも、平和を持つのが難しい。だから、互いに平和の挨拶が必要なのだと思います。この平和、平安、と訳されるのはヘブライ語で、シャローム。聖書の中でとても大切な言葉です。

<何による平安?>
みなさんはどのような時に、平和がないと、不安だと感じますか?
私は幼稚園の園長をしているので、毎年秋の入園願書受付の時期になると夜も眠れなくなります。「園児が集まらなかったらどうしよう?在園のご家庭や職員に迷惑をかけてしまう・・・」そんなとき、主イエスが来られ、私の前に立ち、大量の入園願書を差し出し「平安あれ」と言われたらどれだけ嬉しいでしょう。少なくともしばらくはぐっすりと眠れます。

もしも主イエスが来られ、みなさんの前に立ち・・・
大量のマスクと消毒液を示し、「平安あれ」と言ってくださったら。
コロナウイルスのワクチンや特効薬を示し、「平安あれ」と言ってくださったら。

職場の苦手な人の異動届を示し、「平安あれ」と言ってくださったら。
試験の合格通知や、病院の良い検査結果を示し、「平安あれ」と言ってくださったら。
多額のお金が振り込まれた貯金通帳を示し、「平安あれ」と言ってくださったら。
キレイに終わった家事や仕事を示し、「平安あれ」と言ってくださったら。
あなたの過去の大きな過ちをなかったことにし、「平安あれ」と言ってくださったら。
あなたの思い通りに家事をする夫、全てあなたの願い通りに動く子を示し、・・・などなど

主イエスがあらゆる願いをかなえ、私達の平安を奪う全ての要素を取り除いてくださり、「平安あれ」と言ってくださるなら―――もちろん、別の感染症や災害が襲うかもしれません。職場や家庭に別の問題が起こるかもしれません。再び経済は悪くなるでしょうし、やがては健康を損い、結局他の大きな過ちを犯すでしょうが・・・―――少なくともしばらくの間、状況が改善した間は、私達の心は安心できるのです。

<主イエスの示したもの>
弟子達にとってもそうでしょう。もし主イエスが彼らの中に立ち、弟子達を恐れさせていた宗教家の首を示し「平安あれ」と言ってくださったら(ちょっと怖い例えですが・・・)、弟子達は安心したでしょう。または、人々の心を一瞬で変え、弟子達を歓迎するようにしてくれたなら、もし全ての状況を変えてくださったら、弟子達は安心したでしょう。当然、主イエスならそれは可能なのです。実際、今までも主イエスに祈れば、状況が変わったり、願いが叶ったりすることが多々あったのです。

しかし、弟子達の場合、まだこのヨハネの福音書の直接の読者である1世紀末の激しい迫害下の教会の場合、神様はガラッと状況を変えたり、整えたりはしていません。かわりに、主イエスが「平安あれ」と言って示したのは、ご自身の手と脇腹の傷でした。
主イエスは十字架にかかる前の夜、こう話しました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)十字架の死の際に、両の手に大きくあけられた痛々しい穴、わき腹を深くえぐり抜いた槍の傷跡、これが主が与えた「主の平和」なのです。

<ゆるし:過去への平安>
私達には数えきれない過ち、愚かさ、失敗、罪、醜さ、があります。しかし、その全ての責めや罰は主イエスが負われました。「神は、・・・私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:13~14)主イエスの手と脇腹の傷は、神の深い愛と赦しの証拠です。

<共にある:現在への平安>
嵐のような状況の中で、私達は心細く、怯えます。しかし、主イエスの傷は、イエスが死に敗北したのでなく、復活し、今も生きておられることを意味します。その方は穴の開いた手であなたの肩を抱き、力強く宣言されます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)あなたはどんな時も、どんな状況でも決して一人ではありません。神がいつも共におられ、あなたの横を歩まれます。

<復活:未来への平安>
私達は死を恐れます。全ての失敗、欠乏、喪失、別れ、それらは死へとつながっているようで、私達を不安にします。しかし、主イエスは復活をもって、私達の恐れの源である死の、その先を示しました。主イエスは復活のからだに刻まれた脇腹の傷を示し言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。・・・このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)やがての日、穴の開いた主イエスの手によって起こされ、あなたも新しいいのちへとよみがえるのです。

<主の平和を生きる>
主イエスは恐れる私達の真ん中に立ち、手と脇腹の傷を示して言われます。「平安があなたがたにあるように。・・・あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
もし、過去の出来事や人からの言葉が、現在の嵐のような状況や孤独が、やがての死が、あなたの平安を奪っているのなら・・・祈りの中で、主イエスの御傷を見つめてください。必要ならあなたの指を、イエスの脇腹に空いた傷の中へと差し入れてください。
その傷にふれながら、知ってほしいのです。私達の恐れる死が、欠乏が、喪失が、孤独が、迫害が、目の前の惨状が、全てではないのだと。それを超えるものが存在するのだと。主イエスは死に勝ちよみがえられたのだと。
その時、イエスの平和の挨拶が本当の意味で私達の心に響いてきます。
「あなたがたに平安があるように。」

<祈り>
復活のイエス様。恐れ閉じ込こもる私達のところへ来てください。
私達の真ん中に立ってください。「平安あれ」と平和の挨拶を告げてください。
あなたの手の傷を、脇腹の傷を、私達にお示しください。
私の汚れた手を、あなたのわきに差し入れることをおゆるしください。
そして、私達を見捨てず、語り励ましてください。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と。
かつては、内にも外にも平和のなかった私達を、あなたの平和をもたらす道具としてください。 アーメン

Top