zoom礼拝、聖書の会へのお招き

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おざく台教会はzoomで礼拝や聖書の会をしています。ネットさえあれば、PCでもスマホでも簡単に出来ます。是非お気軽にご参加ください。参加URLをお伝えします。

日曜礼拝 10:30~
水曜聖書の会 10:00~と19:00~

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2020年4月19日「あなたの隣を歩くキリスト」

 

<聖書:ルカの福音書24章>

ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。  13~17節

 

キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。                           26~27節

 

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると              30~33節

 

 

<暗い顔つきのわたしたち>

みなさんは今どのような顔をしていますか?希望に満ちた顔でしょうか?不安で暗い顔でしょうか?

 

何やら道々話し合う弟子達。エルサレムを離れ、コロナ疎開・・でなく、危険なエルサレムから避難したようです。イエスの墓は空だったらしい、何かが起きたかもしれない。でもとりあえずは、身の安全を確保しよう。こうして二人の弟子達は逃げていく最中でした。

私達がコロナウイルスとそれがもたらす、社会的、経済的影響を恐れるように、弟子達も恐れていました。議論はします。しかし、行きつくところは暗い顔でした。

 

 

<隣を歩くイエス>

他の弟子達を置いて逃げ出した二人。イエスは叱るでしょうか?いえ、そっと近づき、隣りを歩くのです。エマオに向かって。逃げ出したその方向につき添うのです。

「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」ルカ24:15

十字架の前に裏切り、復活の後にも逃げていく、そんな弟子達へ近づき、隣を歩く・・・何と大きな愛でしょう。

 

 

<疫病という大きな物語>

戦争、震災、疫病、このような非常時の時、多くの人間が同じような体験をし、同じような感情を共有し、同じような価値観に支配され、同じ将来に向かっていく、それをある作家は「同じ大きな物語を生きている」、と表現しました。(個々人の小さな物語との対比として。)

3.11の震災も私たちにとっては大きな物語でしたが、今回は日本中で、世界中で、共有されています。このようなことは、世界大戦以来かもしれません。命は?経済は?生活は?世界中が希望を失い、みなでそろって暗い顔をし、歩いている・・・エマオへ向かう弟子達のように。

 

でもそんな時こそ気付きたいのです。復活のイエスがあなたの横を歩いてくださっていると。

 

 

<もっと大きな神様の計画(物語・絵)>

不思議です。横を歩いたイエス様は弟子達の問題を解決するのでなく、聖書を説明するのです。こんな時になぜでしょう?

「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」ルカ24:27

もちろん、難解な言語やら文法やらの話ではありません。聖書(旧約聖書)で「ご自分について」告げられていたことを、十字架とその先を、困難や死では終わらない神様の大きな計画について丁寧に教えてくれました。

 

弟子達にとって、イエスの死は、失望であり、終わりでした。しかし、神様のご計画はもっと先まで続いていたのです。それが復活であり、神の国です。聖書は福音書の十字架で終わりません。もっと先まで続くのです。

 

イエスは、「終わった」という弟子達に、聖書から神のご計画を告げたのです。「終わっていない」と。神の記した物語は失望に終わらず永遠の希望に続くと、神の考えたご計画ははるかに長くはるかに深いと、神の描く絵はより大きく広く豊かであると。

 

 

<歓喜の丘に立つ>

登山の時の一番の瞬間は、木々を抜け展望の広がる山頂に出た時、森林限界を超えて山々が見渡せる稜線に出たとき、など一挙に視界が開けた時です。自分の小さな世界が、一瞬で広がった気がします。疲労や荷物の重さは変わりません。しかし、心が晴れ渡り、身体に再び力がみなぎります。

イエス様から神の救いの計画の、広さ、長さ、大きさを告げられた弟子達、イエス様の復活に気付いた弟子達も、このような体験をしたのではないでしょうか?

 

スペインのサンチァゴ・デ・コンポステーラの大聖堂はヤコブの墓があるとされ、そこを目指す古くより巡礼の道があります。ピレネー山脈を超える800キロの旅です。そのゴールの街から東に5キロのところに歓喜の丘と名付けられた場所があります。

長い旅の果て、足の痛みで一歩ごとに顔をしかめ、肩は荷物が食い込み腫れあがります。なだらかな丘を一歩一歩這うように登り歓喜の丘に立つと、景色が一挙に開け、目的地の街と大聖堂が目に飛び込んできます。そして、巡礼者たちは歓喜の大声をあげ、先ほどまでとは別人のように丘を駆け下りるのです。希望に目を輝かせ、歓喜の声を上げながら。

 

復活にイエスに出会った私達は、困難のその先を、死の先の復活と永遠の命を見ています。すでに歓喜の丘に立っているのです。

 

 

<希望に心燃やして>

「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

 

失望に沈んだ弟子達の心は、再び希望に燃えました。そして、逃避先のエマオに向かっていた足を、再びエルサレムに向け歩き出したのです。イエスが横を歩いてくださったから、イエスが失望や死を超える神の希望の計画を見せてくださったからです。

確かにコロナウイルスの社会的、身体的、経済的危機は今後も続くでしょう。9年前のあの日、突然大地震と津波が襲ったように、これからも私達の毎日を揺るがすような出来事が起こっても不思議ではありません。疫病や震災がなくても、私達は日々さまざまな困難と向き合わなくてはなりません。

しかし、神様の私達のための計画は、物語は、絵は、広く、深く、高く、豊かなのです。みなさんの隣を歩いてくださる復活のキリストが、困難や死の先の希望の景色を見せてくださいます。みなさんに「終わっていない」と語りかけ、みなさんの心を日々希望で燃やしてくださるのです。

 

 

<祈り>

最後に使徒パウロの祝福の祈りを祈ります。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」 エペソ3章16~19

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