1月28日のメッセージ

サマリヤの女
小田切武信徒説教者
ヨハネの福音書4章3節、4節

 私は30年ほど日曜学校の教師として聖書の話をしていました。ですから今日取り上げたサマリヤの女の個所からも何度となく話をしました。この個所はイエス様が自らサマリヤに行かれて一人の女性に救いの手を指し伸ばされたことが記されています。しかし、5回も結婚、離婚を繰り返し、最終的には同棲と言う生活を送っている、どちらかと言うと、この生き方はどうなのかなと思われるような女性の所にわざわざ出向き、イエス様の方から救いの手を伸ばされたのは何故だろうかとの疑問がありました。この疑問に対して答えをすっきりと与えて下さった聖書解説に出会いました。それは教会の本棚からお借りした「聖書の女たちから現代の女たちへ」という本の中サマリヤの女」副題「自分を取り戻した女」の解説でした。バイクに乗ったアメリカ人伝道者「アーサーホランド」と言う方をご存知の方も居られると思いますが、この本の著者はこの方の奥様の「キャロリン・愛子・ホーランド」と言う方です。この聖書解説を読んで「そうっだったのか、そうなんだろうなあ」と、この仮説に私は非常に共感を覚えました。

皆様の中にも私と同じような疑問をお持ちの方もおられるとのではないか思い、ご紹介したく、今日の宣教に取り入れさせて頂きました。ちなみにこの著者のキャロリン・愛子・ホーランドさんは井本先生ご夫妻の元職場の同僚だった方だそうです

イエス様が生きておられた当時のユダヤには、サマリヤ人に対する根深い差別意識がありました。まずこの事について少しお話したと思います。紀元前930年頃にイスラエル王国は北王国イスラエルと南王国ユダと言う、二つの国に分裂致します。アッシリヤ帝国が強くなっていくにしたがって、北のイスラエルはアッシリヤに攻められるようになり、とうとう紀元前722年に滅ばされ、ほとんどの人々が国から追放され離散していきます。国を再建できないよう、アッシリヤ人はイスラエルに外国人を連れてきて住まわせました。外国人たちは多くの神々も持ち込みました。残った少数のユダヤ人は彼らと結婚して混血の子をもうけます。この人たちがサマリヤ人と呼ばれる民族で宗教的にも混血となりました。南のユダ国も紀元前586年にバビロン帝国に滅ぼされますが、彼らは囚われの民としてバビロンに住み、70年後、恩赦を受けて再びユダに戻ってきます。純潔を守れた生粋のユダヤ人はサマリヤ人を混血の民族として差別したのです。自分たちは神からの選びの民だと自負していたユダヤ人たちは、混血のサマリヤ人と関わろうとはせず、サマリヤ地方には行こうともしませんでした。エルサレムから北方のガリラヤ地方まで行くのに、一番の近道はまっすぐサマリヤを通ればよかったのですが、ユダヤ人はあえて回り道迄してサマリヤを避けて旅をしました。しかし、今日の個所は興味深い記事で始まります。

    

ヨハネの福音書4章3節、4節

 イエス様はサマリヤを「通った」のではなく「通って行かなければならなかった」そう聖書に記されています。そしてその理由はそこにイエス様を必要としている女がいたからです。イエスを必要としているたった一人の女性に会うためにイエス様はサマリヤを通って行かれたのです。イエス様と弟子たちはガリラヤに戻る途中、スカルと言う町で休むことにしました。弟子たちは食料の買い出しに行き、イエスは町はずれの井戸の傍に座って休んでおられました。するとそこに一人の女性が水を汲みにやってきました。当時、女性たちは、朝と夕の2回、涼しい時間を見計らって水を汲みに行くのが習慣でした。昼間の太陽が照り付けて、暑い12時頃にこの女性は水を汲みに来ました。イエス様はこの女性に会うためにここで待っておられたのです。

そして、イエス様の方から彼女に「水を飲ませて下さい」と声を掛けました、女性は驚きます。「あなたはユダヤ人なのに、サマリヤ人の私に話しかけるのですか?」彼女の驚きは、今の私たちには理解できませんが、この時代、まず男が女に話しかけることはありませんでした。家の外で男性が女性をまじまじと見てもいけませんし、ましてや、ユダヤ人の男がサマリヤの女に声をかけるなんてことはありえませんでした。この女性はイエスを見た瞬間、彼がユダヤ人だとわかったのでしょう。なぜこの女性は暑い昼間に井戸に来たのでしょう。それは人目を忍ばなければならなかったからでした。彼女にはこの時同棲している男性がおり、それ以前には5回の結婚を経験していました。なぜ、彼女は5回も結婚したのでしょうか。その理由は聖書には書かれていませんが、考えられる最大の理由としては、子供を授からなかったからだと思われます。当時、子供を授からない女性

は、価値がないとみなされ、離縁させられたとしても不思議ではありません。女性の方から離縁をするような権利はありませんでしたから、この女性も男性から離縁されたか死別したかしかありません。当時、女性が一人で生計を立てることは考えられませんでしたから、実家に帰ることになりましたが離縁させられた娘として父親に恥をかかせ、家族は肩身の狭い思いをすることになったと思います。それでも父親か親戚が彼女のお相手を御膳立てし、何度か結婚しました。条件は決して良くなかったと思われます。家族にとっても、彼女を結婚させることで厄介払いをしたのかもしれません。結婚相手との別れを含めてどれだけ辛い経験をしたか想像を絶します。決してこの女性は自分からこのような生き方を望んでしたのではないと思われます。このような境遇を受けいらざるを得なかったのだと思われます。最後は自分を拾ってくれた男性と同棲します。男性は果たして彼女に良くしてくれる人だったでしょか。周囲の人たちは、彼女のことをどう思っていたのでしょう。「あの女は5回も結婚して、結局離縁させられて、今は家族にも相手にしてもらえない女だ」ととらえていたでしょうか。少なくとも彼女はそう見られていると思っていました。彼女は女たちの井戸端会議に加えてもらえるはずもなく、耐えがたい人の目を避けるため、誰にも会わなくていい時間帯に水を汲みに来ていました。イエス様はこの事情をしっていて、この女性に会いたい、会わなくてはいけない、とサマリヤを通ってくださったのです。

そんなことを彼女は知る由もありません。そこまで深く自分の事を考えてくれる人は、世の中で誰もいないと思っていたでしょうから、しかしイエスは違ったのです。イエス様の思いはこの女性を救い出し、助けたいと願われたのです。

このサマリヤ人の女性に対しての推測が正しいかどうかは判りません。しかし、間違いのないことはイエス様がこの女性のことを全てご存知の上で会いに来て下さって、救いの手を伸ばして下さったと言うことです。

私たちに対しても同じではないでしょうか。私たちがイエス様のことを考えていなくてもイエスは常に私たちの事を考えて下さっています。

現代に生きている私たちはこのサマリヤの女性のようにイエス様と目に見える形でお会いすることは出来ません、しかし今もイエス様は私たちの事をよく見ていて下さり、あらゆる方法を通して私たちの心にづいて 下さいます。

私の時も偶像崇拝の中で苦しみもがいていた私を見つけ、救いの手を指し伸ばすためにイエス様を信じていた義理の姉を通して私にづいてくださり救い出してくださいました。

今日、私たち神様を礼拝するためにこの礼拝に集っています。これは自分の意思で参加していることも事実ですが、神様が私たちの心に働きかけて下さっている結果でもあります。私たち一人ひとりのこと神様は全てをご存じで私たちにこの礼拝を通しても優しく語りかけて下さっています。サマリヤの女性と同じようにイエス様が私たち一人一人に会いに来て下さ、救いに招いて下さっているのです。イエス様は彼女に声を掛けられました。彼女と会話を始めたのはイエス様です。私たちは、神は遠い存在だと思いがちです。私たちの方から一生懸命アクションを起こさないと聞いてくれない方だと思うかもしれませんが、それは大きな間違いです。私たちは全てをご存知の神の前では自分を何ら飾る必要も取り繕いをする必要もないのです。今も私たちの全てを知っておられる神が、あなたはそのままで良いですよ、素直に私の語り掛けに心を傾け、かたくなな気持ちを和らげて私の招きに従って希望の中を生きていきなさいと願い、見守って下さっておられるのです。

今週も、この神様の招きに素直に応答し、神様の導きと見守りの中を歩むことのできる一週間でありたいと願います。

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