毎日の聖書1月29日〜

おざく台教会毎日の聖書 1月29日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

 

 

1月29日(月)マタイ書4章  

17節「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。』」

 天の御国とは雲の上の楽園でしょうか?いえ、天の御国は、『神の素晴らしい心が実現している領域』という意味で、用いられていました。『天』とは、『神』の名をみだりに唱えないための、ユダヤ的な言い換え表現なのです。つまり、神の心が表されている場所が、神の国、天の御国なのです。 

 そして、イエス様は、ご自身を表して、『天の御国は近づいた。』と言いました。そして、私達にも表れ、近づいてくださいました。私たちはもう、天の御国を知り、味わっているのです。

1月30日(火)マタイ書5章

3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

 貧しいとは、乏しいのような意味です。ルカでは、単に『貧しい人は幸いです。」と言われるように生活も貧しく、厳しく、乏しく、それみ伴い、心も活力を失い、希望を見いだせず、ただ天を仰ぎ助けを求める人のようなイメージでしょうか?

 当時は、天の御国は、豊かな人、地位の高い人、幸せな人、のものだと考えられていました。けれど違うのです。神の愛は、神の国は、神の子キリストは、貧しく乏しい人にこそ、向かうのです。そのような人に、一方的に与えられる恵みなのです。

 

 

1月31日(水)マタイ書6章

9節「だからこう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。」

 イエスは祈りについて教える時に、神を、万軍の主よ、とも、全知全能なる神よ、とも呼ぶようには教えませんでした。『私たちの父』、そう呼ぶように教えたのです。山上の説教では、『あなたがたの父』、『あなたがたの天の父』と口を酸っぱくして教えています。

 私たちは、あまり自分とは関係のない、遠い存在に祈るのではありません。私たちを心を込めて造り、今日まで育み、いつも気にかけてくださる憐れみ深い父に祈るのです。私たちと、天の父なる神とは、深い深い関係にあるのです。

2月1日(木)マタイ書7章

7節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 キリスト教はご利益宗教ではありません。ご利益宗教は、神ではなく、神が与えるご利益に関心があるからです。私たちの信じる神は、天の父です。私たちの最善を知る善い方です。だからこそ、なんでも祈っていいのです。何を求めても良いのです。深い考えにより、私たちに必要なものを与え、ふさわしくないもの、時でないものは、与えられません。どうか神が良い方であることを忘れず、何でも祈り求めてみてください。 

 

 

 

 

2月2日(金)マタイ書8章

3節「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐにかれのツアラトはきよめられた。」

 イエスはいつも、私達の最善を願ってくださいます。イエスの心は、私達の傷が、悲しみが、歪みが、病や過ちが、魂の病が、心の汚れが きよめられることです。

 これは無理だろう、そう諦めていることはありませんか?ぜひもう一度祈ってみてください。願った通りの応えではないかもしれません。けれど、イエスはご自身のよい心を必ず表してくださいます。

 

2月3日(土)マタイ書9章

12〜13節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。【わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。】とはどういう意味か、行って学んできなさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』』

 罪人と忌み嫌われていた取税人マタイを弟子とし、共に食事をしたキリスト。宗教家であるパリサイ派の人達は、なぜ罪深い彼らと食事をするのかと、批判します。

 イエスは、学問がある・神を知っていると自負していたパリサイ派の人たちに、もう一度神の心をしっかりと学んできなさいと言い放ちます。

 神は自己義認するひとではなく、罪や悲しみや弱さの中でもがいている人にこそ、目を向け、かれらを神の国へと招くのです。

 

2月4日(日)マタイ10章

29&31節「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。・・・だから恐れることはありません」

 あなたはなにか恐れていることはありますか?状況の厳しさに、危険の恐ろしさに、欠乏の苦しさに、痛みの激しさに、恐れすくむこともあるかと思います。

 でも同時に覚えておきたいのです。あなたは、神の許しなしに、倒れたり、苦しんだりはしません。絶望とも思える状況の中にも、神の支えは、神の守りは、必ずあるのです。

 ですから、たとえ恐れても、恐れに押しつぶされることは、私達にはないのです。

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