毎日の聖書12月22日〜

おざく台教会毎日の聖書 1月22日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

 

 

1月22日(月)マラキ書1章  

7節「あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。

 私たちは人に何かを差し出すとき、少なくとも、古く悪くなったものや、壊れたもの、腐ったものは、差し出したりはしません。

 相手が大切な存在ならば、 貴重でも、手放しがたくても、相手を思うゆえに、惜しいとは思わないのです。では、私たちは大切な神様にどのようなものを差し出すでしょうか?私達の神への捧げ物は(時間、力、所有物、祈り、賛美など)には、心はこもっているでしょうか?てきとうになってはいないでしょうか?

 神は、金品でもなく、犠牲でもなく、私達の心を求めているのです。いえ、私たちがなにか差し出す先に、御子キリストのいのちを私たちに差し出してくださいました。私たちはどう応えましょうか?

 

 

1月23日(火)マラキ書2章

0節「私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。

 神様はすべての人を創造した父であり、あなたの周囲のお一人ひとりは(ルカ15章の家出をした放蕩息子のように、父を離れているかもしれませんが)、神様の大切な愛する子です。相手の方の信仰の有無に関わらず、大切な神様の子どもとして、その人を敬い、その人のために祈り、その人に仕えてみてください。

 

 

1月24日(水)マラキ書3章

10節「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 自分勝手に神様を試みてはなりませんが、神様の語りかけに応答することによって、神様がどれだけ良くしてくださる方かをためすことは、むしろ神様が望んでおられます。耳を背けていた、従えていなかった神様の語りかけはありませんか?それに応えることによって、神様をためしてみませんか?

 

 

1月25日(木)マラキ書4章

6節「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 旧約聖書の神は人を裁く恐ろしい神、新約聖書の神は人を慈しみと愛に溢れた赦しの神・・という単純な理解は正確ではありません。神様は義であり、愛の方。神様は御子キリストを送ってくださるほどに、本気で世を愛されました(ヨハネ3:16)。あなたも、隣の人も、神は愛し、祝福したいと願っています。

 

 

 

 

 

1月26日(金)マタイ書1章

5〜6節サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、」

 新約聖書の最初、マタイの福音書の、キリストの家系図には、4人の女性が出てきます。当時の系図は男性のみで、女性は記されることはありませんでした。またその女性は王妃でもなく、金持ちでも、権力者でも、知識人でもなく、ラハブは外国人の身体を売る女性、ルツは外国人、ウリヤの妻(バテシェバ)はスキャンダルの渦中の人物です。

 どのような人にも神の愛は存分に注がれており、どのような人も神の祝福の器として豊かに用いられるのです。

 

 

月27日(土)マタイ書2章

11節そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」

 クリスマス物語でも有名な東方の博士たちの礼拝の箇所です。黄金は幼子が王であること、乳香は幼子が神であること、没薬は幼子の十字架の死を、意味するとも言われます。そして、この博士の捧げ物は、ヘロデ王により命を狙われたヨセフ・マリア夫婦のエジプトへの逃亡資金となり(15節)、これがなければやがての十字架もなかったのです。

 私たちの表す誠実は、決して無駄ではないのです。

 

1月28日(日)マタイ3章

16〜17節「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」。」

 『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』神がそう言われたのは、イエス様がまだ、1つの説教も、1つの奇跡も、1人の回心者も、生み出す前でした。

 私たちは神に何かを差し出して、ご褒美に愛されるわけではないのです。先に神が私たちを子と呼び、私達の存在を喜んでくださるのです。

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