1月21日のメッセージ

2024年1月21日「キリストと出会う29」ヨハネの福音書

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12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
16 初め、弟子たちはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。

 

<平和を祈る>

先日は台湾の総統選挙がありました。今年はアメリカの大統領選挙の年です。ウクライナとロシア、ガザとイスラエル、での戦争も変わらずに続いています。教会でも、平和を祈り、行動する年としたいと願います。

日本の報道では、あまり出てこないのですが、ロシアも、イスラエルも、アメリカも、演説などで、神の名が出てくるのです。聖書が引用されるのです。神はこの戦いを助けてくれる、この戦いは神の意志だ!神は私達を全く肯定している。敵国を完全に否定している。そうやって、人々が大切にしている宗教を利用して、行動を正当化し、人々を扇動するのです。

もちろん、信仰は、宗教は、大切です。みなさんにも、教えている中学生、園児たちにも、どれだけ大変な毎日でも、神に支えられ歩んでほしいと願っています。けれど、気をつけたいことがあるのです。私たちは、自分の願いと、神の心を、同一視してしまうのです。相手側に落ち度があることもあるでしょう。けれど、神は自分の全てを完全に肯定し、対立する相手を完全に否定している、そう思い込んでしまうのです。

 

<ユダヤ人の期待、イエスの願い>

今日の場面は、イエスがエルサレムにやってくる場面です。歴史でも習いますが、当時は「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と言われた時代です。ローマ帝国に従属し、税を収め、支配される限りは平和、反抗すれば殺される、そのような平和でした。

ですから、ユダヤ人は熱烈な歓迎でイエスを迎えます。病人を癒やし、ラザロを蘇らせたイエスは、きっと救世主に違いない。強い軍人の王のように、奇跡によって敵を滅ぼす預言者のように、ローマ帝国を倒し、ユダヤ・イスラエル国家を復興し、自分達を幸せにしてくれるはずだ!

そして、「ホサナ」(13節:ヘブライ語で、『今、救ってください』)と叫びます。(詩篇118篇参照)ローマの支配を打ち倒せば、税金がなくなれば、暮らしはもっと良くなる、誇りを取り戻せる。私たちを再び偉大に!(まるで大統領選挙のスローガンのようです)。

 

もちろん私たちは神に何でも祈り求めてよいのです。正しさや、過ちは気にせず、何でも正直に神に語ってよいのです。けれどカトリックの詩人。批評家の若松英輔さんは、『祈るとは、求めることよりもむしろ聞くことに近い』、と表現していました。一方的な思いをぶつけるだけでなく、イエスが私たちに何をしようとしているのか、見ること、聞くことが大切なのです。

 

人々は、イエスを歓迎しようと出迎えます。イエスはそれを見て、14節『ろばの子を見つけて、それに乗られた。』のです。人々の期待は、ローマ皇帝のように力強い軍馬に追った救世主でした。歴代イスラエル王のような騾馬(ラバ)に乗った王でした。けれどイエスは、力や地位とは無縁のロバの子を選ばれたのです。

 

人々も少し戸惑ったでしょう。「初め、弟子たちはこれらのことがわからなかった。」(16節)

弟子たちですらあとになるまで、意味がわからなかったのです。あえてロバの子に乗ったイエスは、思いだしてほしかったのです。神はどのような方か、神の平和とはなにか。

 

<私達のためでもあるろばの子>

旧約聖書の時代は、食うか食われるかの戦争の時代です。ユダヤ・イスラエル国家も戦いの連続でした。その時代の王や神は、自分達を全肯定し、相手の存在を全否定するものでした。敵を倒し、滅ぼすか支配することによる、力による平和と平安が常でした。

けれど、旧約聖書は最後に語るのです。「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、」(ゼカリヤ書9章9~10節)

イエスは、柔和な、子ろばに乗る姿の王として、本当の平和を告げる神として、イスラエルの人々にも、ローマ帝国にも自分を表すのです。その方は、イスラエルが滅ぼしたいと、支配したいと期待した「諸国の民」に対して、「救いを賜わ」るのです。

相手を全否定し、自分達を肯定してくれる救い主を期待した人々に、イエスはこの後言うのです。「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」12章47節

 

イエスは、ローマ帝国を、私たちが対立する人を、さばき、否定し、滅ぼすために、この世界に来たのではないのです。ローマ帝国は残虐でした、私たちが体質する人には落ち度があるかもしれません。けれど、その人を救うために、いのちの道へと導くために、来たのです。キリストは、その人の誤った考えや言動は拒みます。けれど、存在そのものを否定しているわけではないのです。神はどのような人も存在は肯定し、愛し、受け入れ、尊んでいるのです。

 

同じように、私たちの存在を肯定し、尊んでおられます。ただ、これだけは忘れないでください。私達の、言動のすべてを肯定しているわけではないのです。私たちの考えや思いもまた歪んでいますし、多くの過ちを犯すのです。私達にもまた、さばきではなく、救いを必要とする存在なのです。

戦争のとき、対立のとき、私達は、自分のすべてを肯定し、相手のすべてを否定しようとします。神もそうだと考えます。でも違うのです。正しい方は唯一人です。

私たちが完全なら、神は軍馬に乗ってきても良い、けれど、私たちが正しくないからこそ、わたしたちのためにも、柔和なろばの子に乗り、私たちを愛し救おうとされたのです。

 

神の言葉や意思を語る声を聞いたら、神の言葉を使ってその人や国が何をしようとしているのか、その人の内側に平和があるか、その国はキリストの周りにあったような平和をもたらしているか、注意深く見てください。

その人達は、そして私たちはまず、ろばの子にのった神と出会い、存在を肯定され、尊ばれ、内側に平和を与えてもらう必要があるのです。その方は、私達の、言動や考えを安易に肯定せず、私達の歪みを、過ちを、癒やしてくださいます。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。詩篇139:23〜24

本当の平和は、柔和で、ろばの子に乗って、私たちに出会ってくださる方と深く出会うことから、恵みの神との出会いから、始まるのです。この方を見ながら、まず自分自身のうちに平和を持って、また願わくは、キリストの平和をもたらすものとして、新しい週を歩んでください。

 

最後に、カトリック教会で祈られている、平和を求める祈りを紹介して終わります。

神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

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