3月6日のメッセージ
2022年3月6日「こころの泉を見張る⑥」
<ファミリータイム>Ⅱサムエル記11~12章
12:13ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
<聖書>
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
詩篇51篇17節
<罪を犯したかどうかよりも大切なのはその後>
ダビデは心の泉を見張るというテーマにピッタリの人です。難しい状況の中でも、人からの攻撃の中でも、その状況や相手を見る以上に、神を見つめ、自分の心を見張り、誠実な勇気ある心を守り抜きました。けれども、ダビデもまた、自分の心に注意を怠り、大きな失敗をします。
幼稚園でも、こどもはたくさん失敗をします。不注意でこぼしたりお友達にけがをさせたり、というものもあれば、意図的に、イジワルをしたり、噓をついたり、けれどそれは自体は大きな問題ではないのです。
「失敗しても大丈夫、大切なのはその後」といつも言っています。片付けをしたり、ごめんなさいが言えたり、指摘を受け入れたり・・・・失敗は心や行動が変わっていくチャンスともなるため、失敗したときこそが大切な成長の機会なのです。逆に、ごまかしたり、ふてくされたり、嘘を重ねたりしていると、そのこどもの生き方や周囲との関わりがおかしくなります。本当の失敗とは、失敗した後の対応に、失敗することなのです。
ダビデに関する本を読んでいて、こんな言葉に出会いました。『私たちに起こる出来事は、起こる出来事から起こってくることほど重要ではない。』(「最後まで走り抜け」第5章ダビデ)また、この箇所より、「罪を犯すこと以上に恐ろしいのは、その罪を放っておくことです。」というメッセージを聞いたこともあります。
<大切なのは方向転換>
ダビデは今日の箇所で、大きな失敗をします。それは、罪を放っておいたことです。罪とは本来、何らかの過失というよりは、原語では「的外れ」を意味する言葉であり、誤った方向性を、神に背を向けた状態を意味するのです。その状態の結果、内側が不安定になったり、外側に過失として表れてくるのです。
ダビデの心にある時、他人の妻を欲するという思いが沸き起こりました。この心に生まれた小さな情欲をきっかけとなり、その女性について調べ、呼び寄せ、他人の妻を奪い、妊娠が分かると証拠隠滅を図り、失敗したならば今度は夫を殺害したのです。小さな罪を、放っておいたために、それが雪だるま式に膨れ上がり、大きな罪へとつながり、この出来事は、ダビデに、その家族(王家)に、そして神の民イスラエルの歴史に、甚大な悪影響をもたらしました。
それまで、ダビデの心はいつも神に向いていました。ダビデ自身もそれをチェックしていました。だから神と人への誠実を貫けた。今回もすぐに神様の方向に向き直っていればよかったのです。
「悔い改める」とは、日本語では罪責感を抱くとか、深く反省する、といった感情や心情に重点がおかれますが、原語では、「方向転換する」とか、「考えを変える」、といった意味です。神に向きなおるという方向性に重点があります。欲望や欲求、満たされない思いがあれば、自分で解決するのでなく、神のもとに出していいのです(12:8)。詩編の中には、呪いの詩篇と呼ばれる、怒りや恨みつらみ、醜さを吐き出すようなものもあります。心の状態が醜く汚くてもいいのです。大切なのは神に向くことです。そこで、神様に取り扱ってもらえばいいのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節
繰り返しますが、恐ろしいのは罪そのものではなく、罪を放っておくこと、神に背を向けたままの状態でいて、神との交わりがない、神からの取り扱いを受けないことなのです。どうかあなたの心を見張ってください。心が神に向いているか、神を見上げているか、いつも問うてください。
<大きな失敗の後でも>
ダビデのような殺人でなくとも、自分は大きな失敗があった、と思う人はいるかもしれません。こんな私では神様に顔向けできない、神と人を愛することなどできない、と自分で自分を諦めたくなることもあるでしょう。
そんな時は、このダビデの悔い改めの箇所を読みたいのです。罪を指摘されたダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と悔い改めました。サウルのように言い訳もしない、人目も気にしない、ただただ神様に向いているのです。ナタンは告げます。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」
ウリヤの悲劇を思えば、納得できない思いもあるでしょうが、一つ忘れないでください。
神はあなたの罪は拒まれますが、あなた自身を拒むことは決してないのです。ダビデは、死よりも恐ろしいほどの労苦に満ちた生涯を通して、蒔いた種を刈り取ることになります。同時に、神様はダビデに大切な使命を与え、ダビデと関わり続けました。それは、悔い改めの生涯を通して、後の人たちに希望を与えることです。
ダビデは失敗の後も、一生懸命国を守りました。神殿建築の準備に尽力し、後継者に潔く事業を譲ります。大きな失敗をしましたが、他の王のようにどん底まで堕ちることなく、悔い改め、踏みとどまったのです。
そして、何より大切な使命は、罪ある失敗者として神の憐れみを表して生きることでした。ダビデは自分の罪をもみ消しません。自分の恥を隠しません。ナタンの口封じをせず、「ナタンは自分の家に戻った。」(12:15)のです。聖書にはダビデの罪が克明に記され、詩篇51篇では自分の罪深さと神の憐れみを歌います。
醜さや弱さを正直に表し、神の憐れみの大きさを示しながら生きることが、ダビデの使命でした。
ダビデがいなかったら、歴史を通して、多くの人が神に出会えなかったか、神から離れ去ってしまったでしょう。こんな失敗者の私では神に顔向けできないと思う人に、神に愛されるために、赦してもらうために何かを差し出さなければと必死な人に・・・ダビデは、詩編を通して語りかけます。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51篇17節
もちろん正しさや、立派さも大切です。ダビデの前半の、人間的にも信仰的にも素晴らしい歩みを通して、私たちは多くを教えられました。けれど、失敗と喪失の後の後半の生涯、自信も心も粉々に砕け散った後、ダビデは苦難の歩みの中で、他の誰よりも神の憐れみをわたし達に示してくれました。それが本当の生涯といっては言い過ぎかもしれませんが、失敗や喪失、悲しみや転落は全ての終わりではないのです。それらは扉のようなもので、それを通してでしか知りえないもの、たどりつけないところもまたあるのです。
失敗の後、喪失の後、転落の後、神を見上げられるかどうか、こんな私でも神は見捨てないと信じぬけるかどうか、それが本当の失敗と成功を分けるのです。
<今週の黙想>朝毎に、詩篇51篇を読み一日を始めてください。
詩篇51篇
表題 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。
51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。