1月23日のメッセージ

2022年1月23日「こころの泉を見張る」Ⅰサムエル記

 

8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」 8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。 8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。

 

10:6 主の霊があなた(サウル)の上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。 10:7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。・・10:9 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。

 

<やり方より、あり方・外側より、内側>

幼児園は、新学期が始まり2週間が経ちました。急遽年長クラスを担任することになり、心配もありましたが、年末年始も準備をし、皆さんの助けと祈りに支えられ、こども達も安定し、汗と絵具と粘土にまみれて、生き生きと楽しく保育をさせてもらっています。

この期間、自分なりに気を付けていたことがありました。それは、外側の仕事以上に、自分の内側の状態はどうか、自分のこころが何で満ち、何を求め、どこに向き、何を動機としているかということです。

 

私も含めですが、人が振る舞いや言葉で自分のことも人のことも損なってしまうような時、いわゆる外側の状態が悪い時、それは内側の状態も悪い時です。そしてそのような時はたいてい、状況が悪いのだ、他の人が悪いのだ、と自分の外側のせいにして、自分の内側の問題には心が向かないのです

 

イエス様は「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」マタイ23:26と言われました。自分の心の状態によって、同じ状況に直面しても、私達の感じ方、考え方が変わりますし、それが、外側の話し方や振る舞い方に表れてくるのからです。賢人ソロモン王は「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4:23と語りました。人に少しでもいのちを与えさせていただく歩みがしたいと願うなら、自分のこころが、自分の在り方が、問われてくるのです。

 

<こころのいずみを見張る>

今日の箇所は、人々が王様を求める箇所です。ところが、人々が王様を求めたことについて、預言者サムエルも、そして神様も、否定的に捉えています(8章6節)。

指導者を求めたことが問題ではないのです。聖書には、ダビデのような王様、モーセのような預言者、エズラのような祭司、など様々な指導者がいました。けれど、彼らはあくまで、神の代弁者であり、神のしもべであって、本当の指導者は神様でした。神様は、指導者を通して語りかけ、導き、人々は指導者を通して示された神様に信頼し、神に応答しながら歩んだのです。

当時も祭司や預言者などの指導者がいました。すでに旧約聖書の十戒のように様々な律法がありました。神様はちゃんと語りかけていたのです。けれど、士師記・サムエル記と、人々は「自分の目に正しいと見えることを行なって」(士師21:25)いて、神の民同士で互いに争い合い、殺し合っていたのです。

 

王をください、これは、一見すると社会的にも、信仰的にも、“正しく”見える主張です。しかし、その内側に、欲望や身勝手さが隠されているのが、私たち人間です。

人々は、自らの問題に向き合わず、他国のような王様を求めました。王がいれば、他国に勝てる。王がいれば、内外の問題を解決してくれる。王がいれば豊かで安定した生活を送ることが出来る。王を通して、神の子として歩むはずが、王を通して自分たちの欲望や願望を満たしたかったのです。

それは神様との関係を拒み捨てる行為であり、自己中心に欲求を満たそうとするという意味で、偶像の神々を求める心の在り方と一緒だ、というのです。(8章8節)

 

私たちは、何をするにも、何を言うにも、ご自分のこころを見張っていたいと願います。誤った動機や意図はないか、相手を敬い益となることを願っているか、自分の願いと神の願いどちらの実現のためか。聖書の賢い人たちは、いつも神を見つめ、自分を見つめられる人でした。詩編の中にある、ダビデ王による大切な祈りを紹介します。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩編139:24

 

<わたしたちがすべきこと>

やがて最初の王となるサウルに、預言者サムエルは言います。「10:6 主の霊があなた(サウル)の上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。 10:7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。」

 

神の霊があなたの心に働き、心が新しく変えられたなら、何でもしなさいというのです。神に変えられた新しい心でなら何をしても、悪や罪の選択をすることはないというのです。

そうあれたらいいなぁと思います。でも同時に自分の内には古い罪深い性質や過去の傷が残っていて、何かのきっかけに心を満たすこともまた知っています。

 

けれどサウルも、ダビデも、私たちと同じ人間です。彼らも失敗をしました。新しい人、新しい心とは、失敗せず、落ち込まず、迷わず、悩まない、完全無欠の人間という意味ではありません。

思い返してみたいのですが、神の霊が私たちにしてくれたのは何でしょうか?それは、神に背を向け離れていた私たち、再び神様と結びつけてくれたことです、罪にしか向かなかった私たちの顔を、目を、心を、神に向くことが出来るようにしてくださったのです。神に向いた目と心、それが新しい人、新しい心です。

「心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ人への手紙12:2)という言葉がありますが、これは原語では受動態です。しかも継続を表します。ですから「変えられ続けなさい。」という意味です。新しい翻訳では「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」となっています。神に背を向けた私たちであっても、神に向いているなら、私たちは神の取り扱いを受けることが出来る、変えられ続けることが出来るのです。

聖書の王様、サウルも、ダビデも、ソロモンも、みな失敗しました。彼らはある時から神に目を向けるのをやめてしまう。けれど、ダビデ王だけが何度でも神に目を向け続けた、それが他の2名の王との違いでした。

 

私たちの仕事は、自分のこころの泉を見張ることであり、神に目を向け続けること、内側の問題を神に対して開き取り扱いを受け続けていることです。それが出来ているなら、時に誤っても、未完成のままでも、自分は何もできないと思わず、安心して人に仕えていいのです。「神があなたとともにおられるからです。」

キリスト教最大の神学者アウグスティヌスは、言葉を紹介します。『神を愛せよ。その後に汝の欲することをなせ。』神に向いた、神を愛する心をもって、新しい週も歩めますように。

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