5月31日のメッセージ

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おざく台教会2020年5月31日「愛と希望を持って生きる」

<聖書>

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一コリント10:13)

 

 

5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(別訳:喜ぼうではないか。新共同訳:神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。)5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:1~5)

 

 

<ファミリータイム:お話し「火の中に投げ込まれた少年たち」、こども讃美「僕の心の中が」>

3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。 3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。 3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル記)

 

 

<本当の意味でコロナに勝つとは?>

緊急事態宣言が解除されましたが、これで一件落着ではありません。幼稚園では青梅市や近隣小学校と相談しながら保育を進めていますが、さまざまな配慮や対応が求められています。コロナとの戦いをマラソンに例えた人がいましたが、これからも忍耐と体力が必要です。心と身体に疲れを覚える今の時期こそ、シンプルな聖書の言葉が、いつも以上に心に響いてきます。

 

今日の言葉はスケートの羽生選手大けがをした時、競泳の池江選手に白血病が判明した時、インタビューで引用していました。有名な言葉ですので、困難にも絶対に負けないぞ、という意味で引用したのだと思います。

しかし、この言葉は神様の言葉であり、アスリートでないわたし達にとっても、いえ、神さまと出会っているわたし達にとってこそ大切な言葉です。

ここで言われている「試練」という言葉は、日本語では「逆境」や「苦難」といったニュアンスで捉えられますが、別の箇所では「誘惑」とも訳されている言葉です。この言葉の前後には、困難な状況にあったとしても、刹那的な生き方や、自己中心な生き方、不信仰な生き方に走らないようにと注意されています。つまり、わたし達はただ困難に遭うだけでなく、その困難によって、心や生き方が、信仰が揺るがされ、試みられるのです。

 

よくコロナに負けない、コロナに勝つという言葉が聞かれますが、医学的に抑え込むとか、経済的に乗り越えるだけでは勝ったことになりません。困難に遭うと、心は疲れ、諦めやすく、不満を言いやすく、人を攻撃しやすくなります。しかし、それで批判し合ったり、指を指し合ったりして、わたし達や、世界がいよいよ分断されていったら・・・それは敗北です。キリストはそのような状態を「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12:口語訳)と表現しました。わたし達は、心においても、歩みにおいても、互いの関わりにおいても、勝つ必要があるのです。

コロナに限らず、健康や経済、仕事や人間関係に問題を抱えた時など、様々な試練に直面した時など、わたし達の心は、歩みは、どうでしょうか?神と人への愛は、消えたり、忘れ去られたり、冷え切ったりしないでしょうか?

 

 

<困難の中で問われるもの:神への愛、人への愛>

今日のファミリータイムに出てきた、3人の姿は、私にとって見本です。彼らを妬み苦しめようとした人たち(3:8)、自分勝手で奔放な王様(3:13~15)、そんな不条理な人たちの犠牲になりそうなのに、ひどい試練の中でも、燃え盛る炎を前にしても、彼らの心と歩みは揺らぎません。

神をとるか、王を取るか、2者択一で、単純化して迫る王様に、彼らは両方を愛することを選びます。

もちろん神を第一とします。けれど、王様を敵とみなし敵対するのではなく、王様にも敬意を払います。人間はすぐに単純に世界を敵と味方に分けてしまいます。(この人の味方なら、あの人の敵。この国やこの政権の見方なら、他のものは敵など。)しかし、彼らにとって、この王様は敵ではなく、愛し敬うべき人でした。神を第一に愛するという順序がしっかりしているだけで、神と人を愛するという原則は揺らいでいません。

アウグスティヌスは言いました。「神を愛せよ。その後に汝の欲することを為せ。」神を愛していれば、それは人を愛し尊ぶことに必ずつながるのです。

彼らは神と人を愛することを選びました。たとえ自分に危険が迫ってもです。彼らには希望があったからです。

 

 

<神は助けてくださるという希望>

炎を目の前に、絶望しかないような状況の中でも、彼らには希望がありました。「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」(17節)

彼らには以前に神様によくしてもらった体験がありました(1章)、だから、神には救う力があり、これからもきっとよくしてくださる、そう希望を持つことができたのです。

困難の時は、“後ろを振り返ること”が大切と言われます。今まで神から受けた恵みを思い返し、丁寧に数え、神は良い方であると思い返すのです。その神はこれまでと同じように、これからも良いお方で、あなたに必ずよくしてくださいます。

パウロは神の恵みを思い返しつつこう言いました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

だから安心して、まず第一に神を愛すること、そして人を愛することを選び取ってください。

 

 

<永遠の結果という希望>

3人は続けます。「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(18節)私が神を愛する選択は、必ずしも結果に左右されませんよ。と言うのです。神は良くしてくださると信じていますよ。「たといそうでなくても」(口語訳)わたしの期待とは違っても、一時的に自分が損をしても、神と人を愛することを選びますよ、と言うのです。それは炎でも決して損なえない希望があったからです。

ローマ5章には、患難が忍耐に、忍耐が品性に、品性が希望という素晴らしい約束があります。では、この希望とは具体的にはどんな希望でしょうか?直前の2節では「神の栄光にあずかる希望」(ローマ5:2新共同訳)とあります。商売繁盛とか、家内安全とか、学業成就とか、そういった“一時的な好ましい結果”を超えた永遠の結果の希望です。救いの希望、神の国に受け入れられる希望、永遠のいのちの希望です。ある牧師は「たといそうでなくても」という言葉を信仰の神髄と表現しました。彼らは目の前の結果の、さらに先の結果、永遠に目を向けていたのです。

 

結果論という言葉がありますが、神様を持たない人間は「結果」というものを神のように大切にします。コロナが流行り出した頃、幼稚園業界は結果への恐れに満たされました。何かあったら大変としばらくは完全に締め切る判断もありました。正直、自分の保身ばかりを考え、こども達やご家庭を思いやれなくなりました。

しかし、青梅にはキリスト教系の園が多く、園長(牧師や牧師の息子)先生たちと話していて、助けられました。保育は安全第一ですし、結果自体は大切なものです。けれど結果を神のように崇め、畏れ、動かされて、大切なものを忘れては意味がありません。結果への恐れだけで動かないようにしよう、こどもやご家族を愛することを忘れないようにしよう、と話し合いました。出来ることは限られていましたが、預かりをしたり、家での工作を配ったり、それぞれの取り組みをしました。永遠に残るものを(第一コリント13:13)、愛を大切にしよう、という言葉が印象的でした。今も危険はありますが、万が一どこかの園で感染が起ころうが、責めるのは絶対にやめよう。むしろ助け合おう。と話しています。結果を神とするなら、わたし達は愛の神を忘れてしまうのです。

 

みなさんには健康で豊かでいてほしいです。毎日笑顔で楽しく心配せず暮らしてほしい。しかし、健康も、経済も、人間関係も決して、永遠ではありません。残念ながら、やがては失われます。だからこそ、困難の時にこそ、永遠に目を向けたいのです。ローマ5章1節を忘れないでください。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」私達は永遠の希望をすでに得ているのです。

 

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