3月17日のメッセージ

2024年3月17日『わたしは渇く』 ヨハネの福音書19章  井本香織神学生

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ヨハネ19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

 

みなさん、こんにちは。

3月、年度末です。職場では尊敬する上司、同僚、一緒に働いている牧師が、生徒や教会の人に自分のエネルギーを使って、時にはヘトヘトになりながら疲れているところも目にします。

教会、家庭、日常の中でも、誰かと共に生き、その人を大切にしたいと願い、行動する時、私たちは、自分自身に与えられている心、力、時間、自分自身を分け与えます。誰かに心と力を尽くすことは、喜びとなることも多いですが、時に、体と心に疲れと渇きを覚えることも多くあるのではないでしょうか。誰かを愛することは、自分自身を分け与えることでもありますから、愛する側に、欠乏を、渇きをもたらします。愛することは、渇くことを伴うのです

 

〈私たちのために、渇いたイエス〉

今日は、十字架の上でイエス様が言った7つの言葉の一つ、「私は渇く」を取り上げます。イエス様が「私は渇く」とおっしゃった意味に、一緒に思いを馳せたいと思います。

「渇く」とは、喉が渇くように、欠乏する、足りない、切実に必要を覚える、といった意味の言葉です。

イエス様は、いのちの源であり、本来ならば、満ち足りていて、渇くことなどない方でした。その方が、欠乏し、渇いたのです。

神であられるイエス様は、人となって私たちの間に住んでくださいました。痛む人、悲しむ人、欠乏した人に、寄り添い、ご自分の、時間を、力を、言葉を、心を、惜しみなく分け与え、精一杯愛し抜いてくださいました。

最後には私たちに自分自身を与え尽くすために十字架にかかり、肉体的にも心理的にも、欠乏し、渇き切っていました。全てを持ち、全てをできる方が、私たちのために、自分のプライドも、恥も全てを投げ出して、十字架につき、最期の極みにまでやり抜いて、「わたしは渇く」とおっしゃったのです。

 

ある親は、もし仮に何か不測の事態が起こったとして「自分の子どもが生きるためならば、自ら進んで苦しみを引き受け、死にます!私が代わりにすべてを引き受けますので、この子を生かしてください。」と思うことがあるでしょう。(災害の時などに、実際に、とっさにそのような行動をした方も多くいました。)

イエス様は、私たちが、あなたご自身が、神様と共に生きるためならば喜んで、神である特権を投げ出したい、人として持っておられるすべての力を使い切りたいと願い、自ら進んで地上に来られました。不自由さも苦労も引き受け、自分の命を十字架に投げ出しました。そして全てをやり遂げてヘトヘトになって、渇き切ってくださいました。よく、絵画では、十字架の上のイエス様には腰布が巻かれていますが、学者の説によれば、真っ裸で恥をかかせるために吊るされていたそうです。十字架刑は人が自分の重さで吊るされることによる窒息と、脱水、内臓の急激な衰弱によることが死の要因でした。そのような中イエス様は人々からのあざけりを受けつくしました。

私たちのために、「はい、やります!そこまでしてもいいです。」と言って実際に渇き切ってくださった方がいるのです。キリストにとって、私たちは、「そうしても全然惜しくない。あなたのためなら喜んでやったよ。」と言ってもらえるほどに、大切な存在なのです。

 

〈私たちは、渇き切ることはない〉

イエス様の歩みは、労苦にあふれたものでした。貧しい家庭に生まれ、父を早くに亡くしました。一家の長男として母を助け、弟たちを養い、30才で、おおやけに人々のところに現れました。肉体的な疲れを覚えることも、たくさんありました。誤解されましたし、誹謗中傷をされました。それでもその歩みの中で「渇く」とは言いませんでした。弟子に裏切られ、逃げられて、鞭に打たれた時でさえ、十字架につけられ激しい痛みの中にあった時でさえ「渇く」とは言いませんでした。

けれど、十字架の最後の時、「今や、すべてのことが成し遂げられたのを知り」(28節)、最後の最後で「私は渇く」と言ったのです。

旧約聖書では、木にかけられるものは呪われると言われていました。呪いというのは、不幸や何かの被害を受けるということではなく、神の祝福、恵みを失うことを意味します。神との絆がある限り、イエス様はどんな苦労や痛みの中にあっても(もちろん辛かったとは思いますが)渇くとは言いませんでした。けれど、イエス様は、十字架で、わたしたち人類の、すべての人の罪を身代わりに引き受け、天の父との絆を失ったとき、初めて、「渇く」と言ったのです。イエス様は、天のお父さんとのつながりを絶たれ、渇き切ってくださったのです。それは、私たちが、もはや、天のお父さんとの絆を失わず、永遠に繋がり続けるためでした。

ですから、私たちは、もう天の父とのつながりが絶たれることはないのです。

どんなに肉体的にも精神的にも疲れきり、ヘトヘトになっても、私たちには、逃げ込むところがあります。イエス様が代わりに、渇き切ってくださったので、私たちは渇き切らず、潤されるのです。

 

私たちは、これまでも、これからも渇きを覚えることがあると思います。

疲れたとき、思うように物ごとがいかないとき、大切なものを失ったとき、他にも様々なことがあるはずです。

しかし、イエス様が、すでに「私はあなたにすべてを与え、渇き切った。」ことをいつも思い起こしたいのです。この方が、私の代わりに、天の父から切り離されてくださったので、私はどんな時も天の父と繋がり続け、励まし、必要な気づき、休息、従う力をもらうことができるのです。

私の年の離れた弟は、言葉を話す前から、「のどが渇いた!」ということを伝えるときに「ぶー!」と言っていました。弟はいつでも水をもらい、安心してのどを潤していました。幼い子どものように、私たちは、いつでも安心して、「神様、私は渇いています!」と言おうではありませんか。

聖書のエンディングである黙示録には、こうあります。

「渇くものは来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」黙示録22:17

私たちは、自分自身の必要を覚えて渇望することもあれば、他の人と共に生きる時に、渇きを覚えるでしょう。でも、私たちは、渇き切ることはありません。潤され、満たされて歩ませていただけるのです。イエス様が私たちを愛し抜き、すでに私たちの代わりに、渇き切ってくださったのですから。

渇くとき、いつでも、神様のもとに来て、潤された者として、歩ませていただけたらと願います。

 

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