3月19日のメッセージ

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2023年3月19日「キリストを知る」

おざく台キリスト教会2023年度テーマ「キリストに出会う」

 

13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 

<神を知る>

 宗教改革者ジャン・カルヴァンによるジュネーブ信仰告白という信仰問答集はこんな問で始まります。Q 人の主な目的はなんですか? A 神を知ることです。

 

 これは、神や選書に関する知識を蓄えることへの勧めではありません。「神について知ること」と「神を知ること」とは違うのです。

 聖書で知る、というヘブライ語「ヤダー」には、「人はその妻エヴァを知った」(創世記4:1)と用いられるように、夫婦の深い交わりを意味します。ただの頭の知識ではないのです。心で、魂で、肌で、体で、経験で、神を知り、深い関係を持つのです。

 

 イエス様は、最後の晩餐の席、ヨハネ17章の「大祭司の祈り」と言われる箇所で、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 ヨハネの福音書17章3節と言われました。

 永遠のいのちとは、罪赦される天国に入れられる、という素晴らしい知らせに加え、さらに豊かな意味を持っています。天が素晴らしいのは、環境ではなく、そこで素晴らしい神様と顔と顔を合わせて出会えるからです。神との絆、神との交わり、神との関係こそが、神の国、天の御国の本質なのです。「天に神がおられるのではなく、神のおられるところが天である」というかつての信仰者の言葉の通り、私達がキリストに出会う時、天国の前味をすでに味わっている。そして、キリストに出会うなら、キリストを「知る」なら、私達は喜びに満たされ、心が、歩みが、生き方が変えられるのです。

 

 ヨハネの福音書には、様々な人がイエスと出会い、「知り」、変えられていく場面が美しく描かれています。2023年度はヨハネの福音書を読み進め、キリストに出会った人たちの箇所を通して、私たちもキリストに出会い、神を知っていきたいと思います。

 

 ヨハネの福音書4章で、サマリヤの女(ユダヤとは同じ祖先を持ちながら敵対関係にあった国の女性)は井戸端でキリストに出会います。この女性は奔放に生き、5度の結婚と離婚の後、現在は同棲生活を送っています。現代ならまだしも、古代の中東文化においてはありえないような出来事であり、そのため地域社会の人々との関係もままならず、わざわざ暑い真っ昼間(第六の時)に、人目を忍ぶようにして水を汲みに来たのです。(*このヨハネ4章は、第六の時、渇くなどヨハネ19章のキリストの受難物語と関係しています。)

 

 この水と、水瓶は、乾きを満たそうと、男性をとっかえひっかえしていた彼女の飢え渇いた人生と心を象徴しています。私達は何をとっかえひっかえしているでしょうか?何によっ

て、心を、魂を、孤独を、埋めようとしているでしょうか?(水も、他者も、生きる上で不可欠であり、本来良いものです。けれど、彼女も私達も、それらと正しく関わることが出来ないのです。)

 イエス様は彼女に語りかけます。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(13〜14節」

 

 この女性はイエスとの宗教的会話をします。彼女は当時としては当たり前の宗教知識はあったのです。救い主が来ることも知っていました。けれどその方がどのような方か、どれほど憐れみ深いか、知らなかったのです。

 

 イエスは言うのです。「あなたと話しているこの私がそれです。」(26節)この女性は救い主が来ることは知っていた。けれど、地位が高く立派な人、倫理的に正しい人、宗教戒律を守れる人、幸いで満ち足りた人のところに来る、自分には関係ないと思っていた。

 けれど、救い主とは、サマリヤ人で、女性で、離婚を繰り返し、社会的に・宗教的に孤立した、自分のところに来る方であった。私は神に見捨てられていない、神は私のところにまで来てくださった、神は憐れみ深い方だ、と「知った」のです。彼女の内側に、誰も奪えない、何にも替えられない、泉が湧き出したのです。そして、その興奮の中で、水汲み用の水瓶を置きっぱなしにして、自分を拒んでいた人々のところへと行くのです。

 

<神を知らせる>

 「伝道」「宣教」「布教」という言葉があります。しかしそれは、宗教宣伝活動、キリスト教への勧誘活動などではありません。聖書に出てくる人々は、宗教団体が教えた教義でもなく、幸せな生活を手にするための方法でもなく、自分が出会った方を知らせたのです。

 

 (おざく台教会でも新年度から、クリスマス時期にしたように、月に1度、賛美と証の会を持ちたいと願っています。証では、自分の出会った方が、どれほど恵み深い方かを話すのであり、そこに力があるのです。)

 サマリヤの女性は自分が出会った方について人々に話しました。人々はやってきてイエスと話しました。「そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」(ヨハネの福音書4章42節)素敵な出来事ですね。

 

<神に知られる>

 私達は神を知りたいと願います。けれど、より大切なことがあります。それは、神に知られていること、です。パウロは恵み軽んじるガラテヤの人々に、「神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに」(ガラテヤ4:9)と呼びかけます。神が知ってくださる。私達を伴侶のように求めてくださる。なんと幸いなことでしょう。

 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」第一コリント13章12節

 

<神を知り、神に知られる喜びに生きる>

 テーマソングとして浮かんだのは、「Blessed Assurance」(讃美歌529番 「ああうれ

し、我が身も」) です。作者は生後6週間で盲目になりつつも、生涯に8000もの賛美歌を作った、ファニー・クロスビーです。

1)ああうれし、我が身も 主のものとなりけり 浮世だにさながら 天つ世の心地す
  歌わでやあるべき 救われし身の幸(さち) たたえでやあるべき 御救いのかしこさ

*聖歌232では・・・日もすがら証せん 夜もすがら主を褒めん み救いは妙(たえ)なり み救いは奇(くす)しと

 

Blessed assurance, Jesus is mine! 祝福された保証 イエスは我がもの。
Oh, what a foretaste of glory divine!    なんという天の前味
Heir of salvation, purchase of God,     救いの世継(相続人) 神に買い取られた者
born of his Spirit, washed in his blood.   霊によって生まれ、キリストの血によって洗われた

This is my story, this is my song,      これがわたしの物語、これがわたしの歌
praising my Savior all the day long.    朝も夜も、我が救い主を褒め称える

この賛美歌のように神を知り、神に知られる喜びに生きることが出来る一年になりますように。

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