12月4日のメッセージ

2022年12月4日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑭〜

<聖書:マタイの福音書14>

10 彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。11 そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群集がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。14 イエスは舟から上がると、多くの群集を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた

<人となられたキリストの悲しみ>

 クリスマスが近づいてきました。クリスマスがどうして嬉しいか、素晴らしいかと言いますと、神が人となってまで私たちのところに来てくださった日だからです。

 マタイ14章は、5千人の給食(女性やこどもも含めおそらくは1万〜2万人)、そして、湖の上を歩くイエス様など、イエス様こそが救い主・キリストであることを示す代表的な奇跡の記録です。

 この箇所から、5つのパンを差し出した少年のように、私たちの小さな力でも神に差し出すとき、神はそれを豊かに用いて、多くの人を祝福してくださる、と教えられることが出来ます。(アフリカで活躍した宣教師リビングストンは、子供の頃、礼拝で献金する小銭すらなく、献金のかごを地面においてもらい、その上に立ち、「神様、お金はありませんが、私を捧げます」と祈った話と合わせて聞いたことでしょう。)

 また、イエス様を見つめながら湖の上を歩いたペテロが、風を見た途端、つまりイエス様から目を離した途端、恐れに満たされて沈みはじめたことから、キリストから目を離さないでいることの大切さも、心に刻むことができるでしょう。

 そのようなメッセージを準備していたのですが、14章全体を読んで改めて気付かされたのは、この素晴らしい出来事が、イエス様の生涯の中でも、最も暗く、辛かった時期に行われたということでした。それはイエスの親族でもあった洗礼者(バプテスマの)ヨハネの死です。

 ヨハネは人々に悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授け、神が遣わす救い主・キリストとの出会いに備えるよう、説いた人物です。イエスにとっては自分の唯一の理解者とも言えるような存在、心が通じ合うことのできる同労者、自分を祈り支えてくれる人物でした。そのヨハネが王によって殺されたのです。

 イエス様は、ヨハネの死を聞いて、「自分だけで寂しい所に行かれ」ました。ヘロデ王の手から逃れる意味もあったでしょうが、何より働きから離れ、ただただ一人になりなかったのです。神様からの、慰めと癒やしを必要としたのです。(こんなに力ないイエス様は見たことがありません。)イエス様にとってヨハネは、それほど大きな存在だったのだと思います。神でもある方が、人の存在を支えとし、その人の死や喪失に深く落胆し、私たちのように慰めを必要とする存在になってくださったのです。

 私はこのイエス様の姿に、慰めを受けました。神が人となるとは、完全無欠なまま、一時的に大変な環境に身を置くことではない。人としての、弱さや限界をその身に負うことです。私たちにような状態になり、苦しみや、恐れや、迷いや、誘惑や、悲しみを味わわれた。そうまでして、私たちに近づいてくださった。それほどまでに神は私たちを想ってくださっているのだ、と嬉しくなりました。

 私たちは、信仰があっても、恐れがあります。もちろん神様こそが真の支えですが、イエス様が身をもって示してくださったように、他者の励ましと祈りに、存在そのものにどれだけ勇気づけられるでしょう。みなさんにも、死の影の谷(詩篇23:4)を通るような時、支えや慰めとなってくれた人がいらっしゃると思います。その人の人格、能力、品性もそうですが、どこか境遇や状況が似ていたり、感性に近いものがあったり、同じでなくとも似たような痛みを経験していたり、そんな人の存在や、その人の一言が、その人との時間が、大きな励ましや慰めとなるのです。

 ですから、どうか自分は何も出来ないとは言わないでください。私たちが神を信じていることが、礼拝に集っていることが、交わした一言が、祈る姿が、他の誰かにとって、慰めと支えとになっているのです。 

<神の憐れみを貫かれたキリスト>

 イエス様は、一人になり、深く神と交わり祈ることで、心も霊も養われる必要がありました。 けれど、その試みすら、妨げられてしまうのです。船から上がると、すぐに群衆に取り囲まれたのです。数名ではない、万を超える大群衆です。

 体や心が疲れ果てた時、さらに要求されると、わたしならばすぐに苛立ってしまいます。群衆の中には、誠実な願いもあれば、自分勝手な願いもあったでしょう。真剣に耳を傾ける人もいれば、興味本位だったり、批判しようと聞きに来た人もいたでしょう。

 けれど、イエス様は、苛立つのでもなく、避けるのでもなく、彼らを見て「深く憐れんで」癒しの手を伸ばしたのです。 「深く憐れんで」は、スプランクニゾマイという言葉が使われています。「スプランクナ」は内蔵であり、内臓に心が宿ると考えられていた時代において、内臓がねじ切れるほどの痛みを伴った心の動きを意味します。イエス様は、ご自身が最悪の状態であったのに、放っておけなかった。自分に癒やしが必要だったのに癒やし、慰めが必要だったのに慰め、実に群衆の空腹にまで気にかけ(いちばんパンを食べるべきなのは、心も力も注ぎだしていたイエス様だったでしょう)、人々を養うのです。

 その後、やっと一人になれても、弟子たちが船で苦しんでいれば、駆けつけるのです。ペテロがトンチンカンな願いをすれば、それに付き合い、結局は沈みますが、「すぐに手を伸ばして、彼をつかんで」しまうのが、私たちの神なのです。

 自分は理解されていない、自分は気にかけられていない、自分は大切にされていない、そう思ってしまうときが誰にもあるでしょう。けれど、14章を読むときに、イエス様はいつもご自身よりも、私たちを気にかけてくださる。私たちにはいつも憐れみの心が注がれているのだと、知ることが出来ます。

 神は私たちが放っておけず、人となって来られました。ご自身も大変なのに私たちを放っておけず、いつも人を優先させ、心と力を注いでくださいました。そして、私たちを放っておけず、最後の晩餐の席で、人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。・・・わたしはあなたがたを友と呼びました。」(ヨハネの福音書15章13〜15節)と言われ、十字架にかかられました。

 

 私たちのうちをどれだけ探しても、キリストのように、人を憐れみ、自らを注ぎだす力はありません。けれど、私たちに注がれるキリストの心を覚えるなら、私たちの心にも何かが生まれてきます。キリストがしてくださったことを、そして十字架を思うなら、私たちも人に何かができるのです。神は人となり、私たちに近づかれた。私たちの心を注がれた。友と呼び、身代わりに死なれた。私たちはキリストの大切な宝なのです。

ハイデルベルグ信仰問答問1 「生きるときにも、死ぬときにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
答 「それは、わたしが自分自身のものではなく…真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

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