毎日の聖書7月11日〜

おざく台教会毎日の聖書 7月11日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

7月11日(月)第2歴代誌20章

12節「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」

 人間的にはなんと情けない祈りでしょう。しかし、このような祈りをした者たちが神の力を体験してきました。信仰の戦いは、「神の戦い」(15節)なのです。私達も自分の限られた力を認め、神の助けを祈って良いのです。

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイ7章7節

 

 

7月12日(火)第2歴代誌21章

7節「主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである。」

 不誠実なイスラエルが長い間滅ぼされなかったのは、ダビデとの契約のゆえでした。そして、私たちとはキリストの血による新しい契約(ルカ22:20)を結んでくださいました。不誠実な私達、正しく歩めず、罪に惹かれる私達がそれでも愛され続けているのは、ただキリストの血による契約のゆえなのです。

 

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ2章24節

 

 

7月13日(水):第2歴代誌22章

12節「こうして、彼はこの人々とともに、神の宮に六年の間、身を隠していた。その間、アタルヤがこの国の王であった。」

 六年間、なんと長い暗闇の時代でしょう!屈辱と我慢の時ですが、同時に、祈りの時、備えの時でもありました。今あなたは長い暗闇の中にいるでしょうか?人間的には体験したくない時期かもしれませんが、その期間を神の取扱いを受ける機会とも出来るのです。神様が共にいるなら、神の取り扱いを受けるなら、やがての日には、あの期間にも意味があった、あの時期が必要だった、そう言うことが出来るのかもしれません。

 

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5章5節

 

 

7月14日(木)第2歴代誌23章

16節「エホヤダは、彼とすべての民と王との間で、主の民となるという契約を結んだ。

 イスラエル人は、もともと主の民です。しかし、偽りの神々を崇め、欲望のまま歩んでいました。そこでもう一度主(ヤハウェ)だけを神とすると誓ったのです。

 これは私たちにも必要な誓いではないでしょうか?私達は、罪や失敗を犯しますが、その度に神の前に悔い改め続けるのです。今日、神の前にひざまずき、あなただけを愛しますと、誓ってみてください。

 

「 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6章5節

 

 

7月15日(金)第2歴代誌24章

17節「エホヤダが死んで後、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。」

 ヨアシュは自分をもてはやす人々により、高慢になり、堕落しました。甘い称賛の言葉ほど、人の罪の性質を肥大させる餌はありません。キリストと対立した宗教家たちも称賛や地位を求め、神を忘れていきました。

 一方で、キリストの歩まれた道は、低いところへと、光が当たらないところへと、続く道であり、評価や称賛よりも、誤解や中傷を受けました。それでも、キリストは人の褒める言葉よりも、神の言葉を大切にしました。今日一日、私達がキリストの道を歩むことができますように。

 

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。」箴言11章2節

 

 

7月16日(土)第2歴代誌25章

14節「アマツヤは、エドム人を打ち殺して帰って来て後、セイルの者たちの神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏し拝み、これに香をたいた。

 神に選ばれ、神の力により勝利したアマツヤですが、いとも簡単に主を捨て去り、他の神々を拝みます。信仰者には主を捨て去るという恐るべき自由が与えられているのです。

 私達は、文字通りの意味で異郷の神々を拝むことはないと思いますが、様々な「自分の神々」を作り、それらに夢中になり、犠牲を払い、心と時間を奪われ、本当に愛すべき神様を忘れてしまっていないでしょうか?捨て去るべきは、神様でなく、それら偽りの神々です。

 

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」ローマ13章12節

 

 

7月17日(日)第2歴代誌26章

16節「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。」

 主に香をたく事自体は良いことです。しかし、ウジヤの役割ではありません。高慢さは、神の都合よりも、自分や人の都合を優先させてしまいます。積極的に行動しましょう。でも、絶えず自分の心を探りましょう。何かをしようとする時、私達の本当の動機は何でしょうか?隠された悪い思いはないでしょうか?人は内なる高慢の罪からは決して逃れられません。良い意味で自分を疑い、注意深く歩むのです。

 

 

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4章23節

 

 

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