7月10日のメッセ―ジ

2022年7月10日  困難の時に知っておきたい聖書

 

<聖書>

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 第二コリント4:18

 

<本当の賢さ>

 ソロモンという名は、は聖書を読んだことがない人でも一度は耳にしたことが有ると思います。以前『ソロモン流』というテレビ番組があり、各界で活躍する『賢人』に密着し、その人生哲学を紹介する内容でした。ソロモンという名は、賢い人の代名詞であり、知恵と繁栄の象徴でした。けれども、本当に彼は最後まで賢かったのでしょうか?

 

 ソロモンの父ダビデは死の床で、遺言を残します。それは、神の戒めを守り、誠実に歩め、という言葉でした(第一列王記2:1〜4)。ソロモンはその言葉に従い、神を愛し礼拝します(牛1000頭の全焼の生贄です。人間的に考えればなんともったいなく、大変な作業でしょう。)

 

 神様はそんなソロモンに現れ「あなたに何を与えようか。願え。」(Ⅰ列王記3:5)と尋ねます。私達なら何を求めるでしょうか?ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」(同3:9)と願います。(並行箇所の第二歴代誌1:10では、「知恵と知識を私に下さい。」)
 すると神様は、「そのようなことがあなたの心にあり、あなたが富をも、財宝をも、誉れをも、あなたを憎む者たちのいのちをも求めず、さらに長寿をも求めず、むしろ、わたしがあなたを立ててわたしの民の王とした、その民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、 その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、わたしはあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」(第二歴代誌1:11〜12)

 

 このやり取りは、イエス様の言葉神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:38)

 私達なら、目に見え、手に取れ、実感できる、富や名誉、健康や長寿、敵のいのちを求めるかもしれません。(敵のいのちは別として、それらを求めること自体は良いのです。)けれど、ソロモンは目に見えない、けれど何より大切なものを、神ご自身を、そして、神からの知恵を、第一に願ったのです。

 

 そして、父ダビデが命じた、神殿を心を込めて建て、その完成の際にも大切な祈りをします。自分たちの悔い改めに耳を傾け、受け入れてくださいと願うのです(Ⅱ歴代誌6:14〜42)。財を尽くして建てた神殿を、自分の栄光を表す場ではなく、悔い改めの場所、立ち返り憐れみを受ける場所としてくださいと願うのです。

 「6:36 彼らがあなたに対して罪を犯したため──罪を犯さない人間はひとりもいないのですから──あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地、あるいは近くの地に、捕虜として捕らわれていった場合、6:37 彼らが捕らわれていった地で、みずから反省して悔い改め、その捕囚の地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行って、咎ある者となりました』と言って、・・・・6:38 捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り・・・・祈るなら、6:39あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。」

 神様は素晴らしい約束をもって応えます。わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(同7:14)

 神様の目に見える形での祝福を受けていたソロモンですが、目に見えないけれども、何より大切なこと、神様が悔い改めの祈りに耳を傾けてくださることを求めたのです。

 

 ソロモンは箴言や伝道者の書などの知恵の言葉を残したとされています。

「 貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」箴言30:8〜9 

 私達は、富を求めます。貧しさを嫌います。けれど、ソロモンは、いつも目に見えない神様を中心に、目に見える物事を受け止めていたのです。

 

<言行不一致となったソロモン>

 けれど40年の治世の中で、ソロモンはその姿勢を失っていきます。自分の祈ったこと、教えたことと、行動がずれてくるのです。目に見えないものよりも、目に見えるものを愛するようになってくるのです。

 ソロモンは、エジプトの王ファラオの娘を始め、多くの外国の女性を妻として迎えます。違う状況や文化の人を尊重するのは大切です。外構関係の戦略としても有効だったでしょう。

けれど、それらの結婚は、神様が危険だからと禁じていた、結婚相手でした。(列王記第一11:1~2 )

 

「11:3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。 11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。」

 そして、様々な偶像の神々を手上がり次第拝んでいきます。自分の宮殿などを建築しそれを誇りますが、人々は重い税金に苦しみます。最初の祈りを、自分の存在意義を忘れ、自らを誇るものになったのです。

 

 神様はソロモンをしかります。王国が引き裂かれると宣言します。(ダビデに免じてソロモンの存命中ではなく死後に。)
 ソロモンが神殿建設後に祈ったように、「罪を犯さないものは一人もいないのです」から、今が悔い改めのチャンスです。悔い改めの後の赦しと回復という約束もされています。ソロモンの後にも、もっと愚かで不信仰な王たちができます。(言い方はひどいですが、この王は死んだほうがいい!そんなひどい王様ばかりです。)そして、彼らは悔い改めるのです。

 けれど、ソロモンが、悔い改めの祈りをする場面はどこにもないのです。存命中に問題なければ、目に見える状況が困窮していなければ、目に見えない自分の心はそれでいいと思ったのでしょうか?

 

 そして、ソロモンの死後、国は南北に分裂し、争い合い、堕落し、崩壊していくのです。(北イスラエルはアッシリアにより720年頃、南ユダはバビロニアにより587年頃)そして、栄華の象徴でもあった立派な神殿は、悔い改めの場所とはならずに、粉々に崩れ、焼き尽くされたのです。

 新約聖書には信仰の偉人として、ソロモンの名が出てくることはありません。そして、イエス様はガリラヤ湖畔の丘の上で、野原に咲いたユリの花を指し示し、人々に教えます。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」(マタイの福音書6:29)何という皮肉なことでしょう。

 

 一方でこれは慰めなのですが、神様はソロモンの最初の祈りに応えてくださいました。神殿は崩壊し、国は滅亡し、奴隷・捕囚としてバビロニアに引かれていきます。国としても民族としてももう終わりかと思われました。けれど、人々は奴隷となっていたバビロンの地で悔い改め、神様に立ち返り、神は再び人々をエルサレムに帰らせてくださいました。目に見えないけれど、大切なこと、それは、繁栄よりも、富よりも、健康長寿よりも、名声よりも、憐れみ深い神様であり、その神様に立ち返り続けることなのです。

 ソロモンによるとされる伝道者の書(コヘレトの言葉)は最後に、ソロモンの生涯を表すかのように、結ばれています。ソロモンが自身の生涯を振り返っての、私達のメッセージのようにも聞こえます

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」伝道者の書12章13節    私達が目に見えないものを大切に歩めますように。

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