7月3日のメッセージ

2022年7月3日 

 

主の祈り:マタイ6章

天にいます私たちのの父よ。

御名(みな)があがめられますように。御国(みくに)が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように

私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試(こころ)みに合わせないで、悪からお救いください。

[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]

 

ダビデの祈り:第一歴代誌29章

29:10 ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。 29:11主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

 

<最後の言葉>

 [PLAN75]という映画が話題になっています。経済が逼迫した社会で「高齢者が自分の生死を選択できる」という条例が成立し、国や自治体が推奨していく中で、人々がそれぞれの選択をしていくという内容です。

 この映画、実は年齢だけではなく監督が「津久井やまゆり園」での事件に言及しているように、弱い立場や難しい状況に置かれた人への、社会の、私たちのあり方を問いかけています。来週には、参議院選挙があります。自分の都合、目先の利益だけに振り回されることなく、票を投じたいと思わされました。

 

 また、自分の生涯の最後の時というのは、自分自身や他の誰かが決めるものではなく、神の手に握られているものですから、神が定めてくださった時までをどのように歩み、最後をどのように締めくくり、どのように言いたいか、と考えながら今日の聖書のお話を準備してきました。

 

<最後まで神をたたえて歩んだダビデ>

 今日は歴代誌に記された(第二サムエルの最後と、第一列王記の最初にも、別の視点で記されたものがあります)ダビデの生涯の最後の締めくくりの場面です。

 ダビデ王は、イスラエルの歴史に輝く立派な王でした。富があり、力がありました。けれども、最後まで権力にしがみつくことなく、息子ソロモンにその座を譲り、念願だった神殿建設を次の世代に譲り、その準備を整えました。自分を業績を誇るのではなく、その最後にひたすら神をたたえて祈りました(第一歴代誌29章)。

 

 振り返れば、ダビデは神を称える、賛美する人でした。詩篇ではダビデによるたくさんの歌詞が残されていますし、生涯の至るところで神をたたえています。神に感謝し、神を喜び、神を褒め称える、賛美や賛美歌は、キリスト教の特徴です。(ゴスペルミュージックが好きな人ならまだしも、普通ならば、神を称える言葉を口にする機会はないでしょう。)賛美をするとは、神様を自分より上に、前に、中心に置く行為でもあります。自分が世界の中心ではない、自分の都合よりも大切にすべき存在がある・・その感覚に、最初はとても驚きました。

 けれども、聖書を読み、クリスチャンと出会う中で、賛美するということが(それは、歌唱だけでなく、八木重吉のような詩、星野富弘のような絵、アフガニスタンで亡くなった中村医師のような生き方など、様々な賛美の仕方があるでしょう)、私達を大切な生き方へと導いてくれることに気付かされました。

 

 今日のダビデが最後に神をたたえた祈り、そして、私たちが毎週礼拝で祈る主の祈りの最後の部分、この2つはとてもよく似ています。実は、主の祈りの最後の頌栄部分は、おそらくマタイが最初に書いたときには(そして多くの有力な写本には)、入っていなかったため、[  ]がつけられています。(新しい訳では欄外に移動してしまいました。)

 当時のユダヤ社会では、教えられた定型の祈りに、自分たちで応答の祈りを付ける習慣がありました。そこ

で、初期の信仰者は、イエス様の教えられた祈りに、マタイ6章の文脈を踏まえて、このダビデがその生涯を閉じる際に、神をたたえた祈りを、イエス様の教えてくださった主の祈りへの応答として引用したのです。

 

 マタイ6章1〜8節ではイエス様は、自分を誇り、自分を見せびらかしていた宗教家を批判して、彼らのようにならないでむしろこう祈りなさいと、主の祈りを教えました。

 主の祈りは、前後3つずつに別れていますが、最初は神について祈り、その後で、自分について祈ります。この順序が肝心なのです。私のことより、先に神のことを祈るのです。(まさに賛美の順序です)

 

 最初は不自由に感じるかもしれません。けれど、立ち止まって考えてみたいのです。神より自分が優先される時、神の言葉より自分の願いによって行動する時、内側で神より自分が大きくなる時、私たちはどうなっていくでしょうか?

 ダビデは、その生涯で、姦淫や殺人などの大きな過ちおかしました。また高慢になり、多くの人が被害を受けました。神より自分が優先された時、賛美の心を忘れ失った時、ダビデは、自分の欲望や、自分の高慢さを満たそうと、罪を犯していったのです。

 

 一方で、その生涯の大半を振り返ると、彼は、謙遜で、誠実で、勇敢な人でした。どんな状況に流されず、その姿勢がブレることはありませんでした。その秘訣を本人が詩篇で歌っています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:9)ダビデは、神様を真正面に観ていたから、神様を第一としていたから、神の言葉を自身の何よりの指針としていたから、賛美の心がある時、彼は正しく、じつに人間らしく歩むことができたのです。

 多くの人は、信仰とは、私たちの行動を規制し、視野を狭くし、私たちを不自由にすると考えます。しかし、イエス様は、「真理はあなた方を自由にします。」(ヨハネ8:31)と教えてくれました。ダビデは神様を第一にすることで、しなやかに、誠実に、人間らしく歩むことができ、逆に自分、自分、となるときに、欲望や願望に縛られ、不自由になり、愚かで、醜い生き方になっていきました。

 

 私たちも、歴代の信仰者達も、ダビデのように誘惑にあい、欲望から様々な失敗をし、高慢さから周囲への多大な迷惑をかけてきたかもしれません。けれど、どれだけ躓いても、迷っても、倒れても、何度でも立ち返って、神をたたえながら歩みたい。最後には、感謝と賛美の言葉をもって生涯を閉じたい。主の祈りの最後の部分には、そんな信仰者たちの決意と願いが込められているのです。

 私達も、賛美の心を持って日々このように歌いながら歩み、願わくは最後の日にも、このように神をたたえて歌いたいのです。

 

<恵みから始まる>

 ただ、どうか自分の心がけや気合で、それをしようとは試みないでください。祈りとは、会話です。会話は、呼びかけ、相手を呼ぶところから始まります。思い返してください、イエス様は、神様をどのように呼ぶことを教えてくれたでしょうか?イエス様は、神様を、「天にいます父」と呼ぶように祈りを教えました。

 そして人々に神様のことを話すときは『あなた方の父』はと口を酸っぱくして語り、、この父は、恵み深く、哀れみと赦しに富み、あなたの必要をご存知で惜しみなく与え、あなたの思いをご存知で、あなたの隠れた善い行いをしっかりと見ていてくださる方、だと教えました。

 

 最初に紹介した映画は、登場人物が、周囲から拒絶され、お荷物のように、存在しないほうが良いかのように扱われていく、寂しさや哀しさで溢れていました。

 たとえ人々や社会が「あなたの居場所などない、あなたの存在を望まない」と言っても、キリストが『なんぢら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。 わが父の家には住處(すみか)おほし(多し)』(ヨハネ14:1〜2文語訳)と約束されたように、どんな時も私たちの存在を喜び、天にも、地にも居場所を備えてくださる方がいるのです。賛美は(そのような生き方は)、義務でも、目的でもありません。天の父が良い方だから、私達は歌わずにはおれないのです。

<今週の黙想>朝ごとに、聖書を読むだけでなく、賛美歌を歌い、毎日を始めてみてください。

Top