4月14日のメッセージ

おざく台教会2024414キリストと出会う37 ヨハネの福音書21章

12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい

神様はどんな方?

 新年度になり、たくさんの新入生たちが中学・高校にやってきました。ミッションスクールでは、週に1度、礼拝と聖書の授業があるため、聖書と賛美歌が配られます。充実した学校生活を送るとともに、神様が恵み深い良い方であること、それを知る3年間であってほしいと願います。神様をどんな方であると理解しているかは、わたし達の生き方に影響するからです。とくに失望の時にこそ。

 みなさんは、自分自身を諦めたくなる時、自分で自分を受け入れられない時、ありますでしょうか?

(日本語で”諦める”は放棄、断念、妥協、失望、降参など、の良いイメージがないかもしれませんが、本来は、つまびらかにする、明らかにする、真相をはっきりさせる、といった意味の言葉です。)ペテロは、困難の中で、本当の姿が明らかになりました。ゲッセマネの園ではキリストを見捨てて逃げ出しました。あなたはキリストの弟子か?と問われると、私とイエスとは関係ないと3度も拒みました。

 自分の本当の姿に気付かされ、向き合った時、ペテロは自分に失望します。キリストの弟子であること諦め『私は漁に行く』(21章3節)ともとの漁師の仕事に戻ろうとしたのです。読んでいて『私は』という言葉が心に残りました。イエスが復活した、それは素晴らしい。でも、私には関係ない、自分はイエスを拒んだ惨めな失敗者だから。イエスの道を歩むのは、私ではない他の誰かだから『私は漁に行く』という言葉には、そんなペテロの諦めと失望が滲み出ているように思われます。

 弟子たちはみなイエスを捨てて逃げたのでは?いえ、ペテロはゲッセマネの後、イエスを知らないと「3度」拒みました。「3」は当時特別な意味で使われた数です。完全数と言われ、完全に、完ぺきに、全く、などを意味しました。ペテロはイエスを完全に拒み、全く捨て去ったのです。

 他の弟子にはチャンスが与えられるかもしれない、けれど、『私は』もう赦されない。イエスは他の弟子なら赦し、受け入れるかもしれない。けれど、『私は』もう受け入れられない。

 私達も、自分の弱さ、醜さ、失敗が明らかにされた時、そのような自分の側面と向き合った時、ペテロのような思いにおそわれることがあるかもしれません。そんな時、絶対にしてはならないことがあります。それは自分で自分自身に判決を下すこと、自分で自分を裁くことです。

 イエスを完全に裏切ったのはペテロだけではありません。イスカリオテのユダも同じです。ユダも裏切りを後悔をしました。私が悪かった、金は返す、と後悔したユダに対して、宗教家は言い放ちます「自分

で始末することだ。」(マタイ27:49)これは悪魔の言葉です。その言葉に乗って、ユダは裏切りと言う自分の失敗を、自分で解決しようと、自死を選びました。ペテロもユダも自分で自分をさばいたのです。一見責任感があるようですが、もっとも神を悲しませる選択です。

 後悔と悔い改めは違うのです。後悔は悔いて自分の内側に沈み込むことですが、悔い改めは原語のギリシャ語では方向転換を意味するように、神に向くことです。私たちに必要なのは、後悔ではなく、悔い改めの方です。私達の過ちに、始末をつけられるのは、イエス・キリストだけなのです。

<キリストはあなたをどう見ているか>

 今日の場面でイエスは裏切った弟子たちに現われます。今回で3度目。神はご自分の方から「3度」、つまり「完全に」イエスの方から歩み寄り食事をします。 弟子達が食事の用意をしたのではない。イエス様が彼らのために食事を用意し、いっしょに食べました。(食事とは親密な関係の表現です。)そして「彼らが食事を済ませたとき、」(21:15)つまり、イエスは十分にご自分の愛と赦しを表現した後で・・・

 ペテロに問うのです。「あなたはわたしを愛しますか?」「あなたはわたしを愛しますか?」「あなたは私を愛しますか?」と、「3度、ペテロが裏切った数だけ、完全を意味する数だけ、問うたのです。

 ペテロは自分に失望していました。そんなペテロに期待する言葉をかけるのです。イエスはペテロに失望してはいなかったのです。もちろん、失敗はしないほうがいい、過ちはおかさないほうがいい、でも神の愛は変わらないのです。何度失敗しても、何度失望しても、決して自分自身を諦めないでください。神があなたを決して諦めないからです。

する対象

 また、問われかたも大切です。イエスは、「わたしを信じますか」でもない、「わたしに従いますか」でもない、「わたしを愛しますか」と問うのです。

 信じること、従うこと、とても大切です。けれど、ペテロもユダも、ある意味では信じていました。従っていました。でも従えている自分でなければ、正しい理解と行動がなければ、神は私を捨て去る、私は救われない、と考えていたようです。そして、失敗をした時、 ペテロもユダも、こんな自分はもう愛されない、受け入れられない、と結論付けたのです。そこには恐れや不安がありました

 けれど、恐れや、不安によって導かれる不健全な関係を、神は全く望んでいないのです。

「愛には恐れがありません。全愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(ヨハネの手紙第一4章18節)

(聖書に畏敬の念の意味を表す「畏れ」は大切ですが、この場合は恐怖を表す「恐れ」です。私達の信仰が、教会が、このような恐れに導かれる歩みへと陥らないように、気をつけていたいのです

 私達が何度無視しようが、裏切ろうが、失敗しようが、見捨てず近づいて問います。十字架の釘の穴の空いた手で、交わりの食事を整えます。それはイエスのメッセージです「わたしはあなたを愛しています。」、そして、何度でも、何度でも、わたし達の過ちのたびに、わたし達の失望や落胆のたびに、問うてくださるのです「あなたはわたしを愛しますか?」

 ヨハネは晩年、どれだけ罪深くても、このキリストの無限の愛にすがるようにと、教会を励まします。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節  失敗をした時、私たちがすべきなのは、後悔でも、諦めでも、自己解決でもありません。まず何より憐れみ深い神に向くことです。

 あなたは自分をつまらない存在、意味のない存在、価値のない存在、そう思っていませんか?もしあなたに価値がないなら、どうしてイエスはあなたのために十字架にかかるでしょうか?どうしてイエスはあなたのところに来て「あなたはあなたを愛しますか?」とたずねるのでしょう?イエスは、あなたを決して見放さず、見捨てず、何度失敗しても、近づき、期待を込めて訊ねてくださいます。あなたはわたしを愛しますか?」

 神を無限の愛の方、わたし達を見放さず見捨てず、いつも向こうから近づいてくださる恵み深い方、そのような安心に支えられ、新しい年度も歩みだしてください。

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