毎日の聖書6月27日~

おざく台教会毎日の聖書 6月27日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

6月27日(月)第2歴代誌6章

19節「あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。」

 神殿完成の時、ソロモン王は、神が悔い改めに耳を傾けてくださることを、繰り返し求めました。実際に神は背信のイスラエルの悔い改めの祈りに何度も耳を傾けてくださいました。

 どれだけ私達が愚かで弱く汚れていても、悔い改めて叫ぶなら、神は聞いてくださる。これが私達の慰めです。

 

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」第一ヨハネ5章14節

6月28日(火)第2歴代誌7章

14節「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」

 12節からは昨日のソロモンの祈りへの神の答えです。神の選びと愛とは決して変わりません。しかし神の民には、決心や行動を伴った悔い改めの応答が求められています。この答えは重荷でも義務でもなく、私達に与えられた素晴らしい権利、祝福への招きです。

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節

6月29日(水):第2歴代誌8章

11節「ソロモンはパロの娘を、ダビデの町から彼女のために建てた家に連れて上った。「私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱を迎え入れた所は聖なる所だからである」と彼が言ったからである。」

 異邦人との結婚や多くの妻は、後の堕落へとるながり、国家崩壊の原因ともなりました。しかし、この時のソロモン王の発言にはわずかながらも彼の信仰のきらめきが見えます。私達も罪深い毎日を送る中であったとしても、小さな信仰を輝かせることができますように。

 

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。第2コリント13章5節

6月30日(木)第2歴代誌9章

31節「ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をその父ダビデの町に葬った。彼の子レハブアムが代わって王となった。」

 国の外面的な繁栄とは反対に、国の内側では、偶像礼拝が入り、民は労働と税に苦しみました。子への信仰継承の至らなさは、晩年のソロモン王の堕落した信仰を表しています。見える外側も大切ですが、内側の見えないものを、見えやすいところより、見えにくいところを大切にしましょう。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6章6節

7月1日(金)第2歴代誌10章

8節「しかし、彼はこの長老たちの与えた助言を退け、彼とともに育ち、彼に仕えている若者たちに相談して、」

 もちろん若い知者もいるでしょう。けれど問題はレハブアムが、本当に必要な忠告よりも、耳障りのよい言葉を求めたことです(「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」第2テモテ4章3〜4節

 ですから、自分にとって都合の良い言葉ではなく、自分にとって都合の悪い言葉、そのような言葉こそが、実は私達にとって本当に必要な言葉のことが多いのです。

 あなたは普段、誰に相談していますか?その人は、時に厳しいことを言ってくれる本当の友でしょうか?私達の本当の友であるのは、誰よりもイエス様です。

 

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」ヘブル4章12節

7月2日(土)第2歴代誌11章

4節「『主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから。』」そこで、彼らは主のことばに聞き従い、ヤロブアムを目ざして進む行軍を中止して、引き返した。」

 ヤロブアムのように、信仰を大義名分に、好き勝手をして神の国を妨げるのが、神の民の愚かな歴史です。読者は、レハブアムこそが神の僕として、ヤロブアムを討つことを期待したかもしれません。(実際に、そのような例も多々あります。)けれど、この時、神はヤロブアムと戦ってはならないと言われます。レハブアムやユダ王国も、自分の思いと神の御心とを同一視して、道を誤る危険があったのでしょう。

 自分は大丈夫、自分は正しい、御心に歩んでいる、そう勘違いしながら、いつのまにか神から離れていることもあるのです。勘違いをしないでください。神は、私達の存在はいつも全肯定し愛し受け入れてくれますが、私達の意見や主張(願望や欲求)までも全肯定しているわけではないのです。

 私達はもちろん自分の意見を主張しますし、誰かへの反対も表明します。けれど、何よりも自分自身を疑い、神の前にへりくだり続けるのです。

 

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」第一コリント16章14節

7月3日(日)第2歴代誌12章

6節「すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい」と言った。」

 地位や名誉を求め、神の民に分裂をもたらしたヤロブアムはもちろん正しくありません。しかしレハブアムもまた同様です。唯一正しい方は主です。

 人との力関係や、利害関係に、私達は心を奪われますが、究極的には、それらは私達が感じているほどには大切ではないのかもしれません。

 私達がまず第一に心を傾けるべきは、神との関係です。神の前に自らを悔い改め、主を仰ぐのです。

 

「 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ(畏れよ)。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」伝道者の書12章13節

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