5月1日のメッセージ

おざく台教会2022年5月1日「平安あれ」

 

<聖書:ヨハネの福音書>

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 

<私達の平安、キリストの平和>

教会の歴史の中では、『主の平和』という挨拶があります。私達は内側にも、外側にも、平和・平安が大切でし、「平和をつくる者は幸いです。」とイエスが教えられたように、平和・平安は、私達の務めでもあります。みなさんはどのような時に心の平安を失うでしょうか?みなさんの平安の土台、源は何でしょうか?

 

私の場合、心の内側の状態は、外側の状況に左右されてしまいます。状況が悪くなると、その解決ばかりに心が向き、それが解決しない限りは、不安に支配されてしまいがちです。もしも主イエスが来られ、コロナウイルスを消し去り、「平安あれ」と言ってくださったら、職場の人間関係や家族の問題を解決し、預金通帳に多額のお金を振り込み、健康と長寿の薬を差し出し、過去の過ちや失敗をなかったことにし、「平安あれ」と言ってくださったとしたら、どれだけ安心でしょう。

 

「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」(20:19)主イエスが彼らの中に立ち、弟子達を恐れさせていた宗教家の首を示し「平安あれ」と言ってくださったら、人々の心を一瞬で変え、弟子達を歓迎するようにしてくれたら、時間を巻き戻しイエス様への裏切りをやり直せれば、弟子達は安心したでしょう。

 

しかし、主イエスは十字架にかかる前の夜、こう話しました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

イエス様の与える平安とは、私達の外側を望ましい状況に変えることで得られる平安ではありませんでした。かわりに、心を騒がせ、恐れていた弟子たちに主イエスが「平安あれ」と言って示したのは、十字架の死の際に、両の手に大きくあけられた磔の釘の痛々しい穴、わき腹を深くえぐり抜いた槍の傷跡でした。このイエス様の傷こそが「主の平和・キリストの平和」の源なのです。

 

<過去への平安:イエスは愛の神>

どうして復活されたイエス様には傷があったのでしょう?それはただの一時的な目印ではなく、やがての天国の描写にもはっきりと記されています。「わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。」(黙示録5章6節)手話で”イエス様” は、両手のひらに指を立てるしぐさ(釘の痕)で示されます。復活のからだにさえ残っている十字架の傷跡、それはイエス様のアイデンテティそのものなのです。

 

その傷跡に関して、カトリックのフランシスコ教皇はこう教えています。「イエスの傷は信仰にとってつまずきですが、それはまた信仰を確かめるものでもあります。そのため、復活したキリストのからだにおいて、傷はなくならないのです。なぜなら、この傷は、わたしたちに対する神の愛の永遠のしるしだからです。それは、わたしたちが神を信じるために不可欠だからです。それが不可欠なのは、神が存在することを信じるためではなく、神が愛であり、あわれみであり、忠実なかたであることを信じるためです。聖ペトロは、イザヤを引用しながら、キリスト者にこう書き送ります。『そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました』(共同訳1ペトロ2:24イザヤ53:5)。

 

イエスを裏切ってしまった弟子達のように、私達の過去にもまた過ち、愚かさ、失敗、罪、醜さ、などがあるでしょう。その過去が私達を縛り、心が痛み、負い目を感じ、自分で自分を諦めたくなる時があります。

イエス様は私達の過去をなかったことにするのでも、誤魔化すのでもなく、その責めや罰を身代わりに負って、手に釘を打たれてくださった。「神は、・・・私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:13~14)

過去の出来事や失敗が、私達の平安を奪うなら、どうかイエスの手の傷跡を見てください。それは、私達の愚かさや醜さすら受け止め救ってくださる、神の愛のしるしです。私達は愛された者、赦された者なのです。

 

<現在への平安:イエスは共にある神>

現在の人間関係・家族・経済・健康などの問題が私達の平安を失わせる時もあります。そんな時、状況以上に問題なのは、自分を責めたり、人を憎んだり、神を恨んだり・・・など自分の状態も悪くなってしまうことです。平和をつくる者どころか、平和を壊す者になってしまう・・ですから、やはり問題はないほうが良い・・・

けれど、そんな時こそ思い返していただきたいのですが、イエス様の生涯は問題だらけでした。私達ならすぐに平安を失うような、貧しさ、誤解、裏切り、批判、暴力、などに遭い、最後は十字架で殺されました。外側の状況だけを考えれば、こんな傷だらけの方を神様とは思えません。また傷だらけの自分も受け入れられません。

 

「復活によっても癒やされない傷がある」と聞いたことがあります。どこかで私たちは、神様のもとでは傷や痛みがすべて跡形もなくなることを期待しているかもしれません。天では、すべての傷がすっかり消え去り、障害もなく、皆美男美女で、賢く、若々しく、劣等感を持たなくてよい姿になっている、というイメージがないでしょうか。そしてそれはそのまま、今でも神様が、私を傷つかないよう、失敗や問題や痛みがないよう守って下さればいいのに、という期待と、どうして私には傷があるのだという、失望と繋がっています。

 

ですが、聖書は傷について別の視点もまた与えてくれます。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり」へブル5:8~9

イエス様は、苦しみを通して、傷を通して、十字架を通して、「従順を学び、完全な者とされ」た、とあります。神様の考える完全さ、とは、完全無欠のパーフェクトではない。この完全な者、とは、イエス様が十字架で言われた「完了した」(ヨハネ19;30)と同じ原語です。傷のない、痛みのない、悲しみを知らない、機械仕掛けのような神様が、どうして私達の救いとなるでしょう?イエス様の愛や誠実さや聖さは言葉だけの薄っぺらいものではない。痛みも、悲しみも、乏しさも、苦しみも、その身をもって知っている、それでも恨まず、腐らず、見捨てず、諦めずに、愛しぬく、そのような完全さです。

 

以前にも若松英輔さんの「悲しみは扉のようなもので、そこを通らなければたどり着けない場所がある。」という言葉を紹介しましたが、イエス様はそれらの問題を否定するのでなく、それらを通して、完全にされた愛や、誠実さをもって、私達を愛しぬいてくださいました。イエス様の差し出した手の傷痕は、イエス様が、私達の、恐れも、不安も、痛みも、寂しさも、悲しみも、知っている証です。そして、その中でも、神と人への従順を貫きうる証です。

その方は穴の開いた手であなたの肩を抱き、力強く宣言されます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)あなたはどんな時も、どんな状況でも決して一人ではありません。悲しみを知る方が、それを通し完全になられた方が、いつも共におられ、あなたをその穴の開いた手で支え、いのちへと導くのです。

 

<未来への平安:復活の身体>

私達は死を恐れます。全ての失敗、欠乏、喪失、別れ、それらは死へとつながっているようで、私達を不安にします。しかし、主イエスは復活をもって、私達の恐れの源である死の、その先を示しました。

復活のイエスは、傷のある手足を示し、言われました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39)やがての日、穴の開いた主イエスの手によって、あなたも新しいいのちへとよみがえるのです。

 

その傷を見ながら、その傷にふれながら、知ってほしいのです。私達の恐れる死が、欠乏が、喪失が、孤独が、迫害が、目の前の惨状が、全てではないのだと。

それらの死を通して、生まれる神のいのちが、永遠のいのちが存在するのだと。そして、死に打ち勝たれた方が、恐れる私達と共にあり、地に平和をもたらしてくださるのだと。「あなたがたに平安があるように。」

 

<祈り>

復活のイエス様。恐れ閉じ込こもる私達のところへ来てください。私達の真ん中に立ってください。「平安あれ」と平和の挨拶を告げてください。あなたの手の傷を、脇腹の傷を、私達にお示しください。私の汚れた手を、あなたのわきに差し入れることをおゆるしください。そして、私達を見捨てず、語り励ましてください。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と。かつては、内にも外にも平和のなかった私達を、あなたの平和をもたらす道具としてください。 アーメン

 

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