4月24日のメッセージ

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見ずに信じる者は幸いです

ヨハネの福音書20章24節~29節

 

聖書は実に不思議なことが書かれている書物だと思いませんか。信仰の書でありながら、信仰の対象であるイエスは馬小屋で処女から生まれ、しかも、この世の迫害にあって犯罪人として十字架刑で処刑された。さらに極め付きは三日後に肉体をもって復活したと記されています。信じてほしいなら、こんな誰が聞いても、にわかには信じられないことがなぜ書かれているのでしょうか。信じやすいようにと考えるなら、イエスは貧しく生まれたが厳しい修行の結果、悟りを開き、その悟りを多くの人達に語り、教え、受け入れら、人々を幸せに導いたという筋書きが妥当ではないでしょうか。もし、当時の人たちに受け入れられることなく苦しみの中で死んだとしても、肉体を以ってではなく、その魂は復活しました。そして、今もこの地上で皆さんはこの魂と精神的に交わることが出来るのです、こんな筋書きが良いではないでしょうか。では、聖書は何故あえて、にわかには信じられないことがわざわざ書かれているのでしょうか、その理由はただ一つ、聖書は歴史上で起きた事実を忠実に記した書物だからであるからだと思います。さらに信仰の模範となるべき弟子たちに関しても何ら飾る事のない記事が多くあります。今日は身近にいた弟子でありながらイエス様の復活に対してとんでもないことを言った弟子の言葉について考えてみたいと思います。

福音書に記された復活の記事を読むと、イエス様と行動を伴にしてイエスご自身からイエスが復活されることを聞いていた弟子たちでも、復活を全く信じていなかったようです。復活したイエスを前に、彼らは、喜ぶどころか幽霊を見たかのように恐れ委縮してしまっています。またトマスという弟子に至っては、その傷あとを目で見、自分自身の手で触れてみなければ、イエス様が生きているなどとは信じられないと、断言してはばからなかったようです。

ヨハネの福音書20章24節、25節を読んでみましょう。イエスの処刑後、ユダヤ人たちを恐れて隠れていた弟子たちの所にイエス様が現れて復活した姿を見せられました、その時、トマスはその場所には居なかったようです。トマスはその話を聞いても信用出来ませんでした。25節のトマスの言葉からは、彼は疑い深い人物だったというマイナスのイメージが浮かび上ります。しかし、疑うことがいつも悪いことではないと思います。「疑う」ということは、必ずしも不信仰や否定的なことだけに結び付くのではなく、「よく考え抜いて信仰を求めたい」という積極的な面もあると思います。トマスという人は素直な性格で勇気を持って発言することができる人であり、この発言はイエス様に対する忠実さを持っていたのではないかとも思える発言ではないでしょうか。トマスは、仲間たちの話を聞いて、その場に居合わせる事の出来なかったことを非常に残念に思い、もし自分がその場にいたならばもっとはっきりと確かめて、イエス様が本当に復活されたことを確認していたのに、トマスの言葉には本当のこと、起きた事実をきちんと知りたいという誠実な願いと求めがあったとも感じられます。

トマスという人物についてヨハネがどう書いているか他の個所からも見てみたいと思います。11章16節には、「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」14章5節には「トマスはイエスに言った、「主よ。どこにいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と記されています。

これらの発言からはトマスは勇気がある行動的な性格の持ち主だった事が解ります。イエス様が地上に来られた目的をトマスは理解し、さらにその目的を深く知りたいと願ってイエス様に質問をしています。トマスは誰よりも、筋道を立てて、物事を理解しようとしている人物だということが感じられます。トマスは現実的、合理的に物事を考え、詰めて行く人だったのではないでしょうか。トマスは自分に正直に向き合い、素直な疑問を口に出したのではないかと思います。トマスはこの記事から非常に疑い深いというマイナスのイメージで捉えられることが多いのですが、トマスは物事に筋道を立てて理解しようとする、正直で理性的人物であったのではないかと私は思います。

素直に信じる信仰は大切ですが、考えずに何でも信じてしまうのも問題だと思います。

私は、これで大きな間違いを犯してしまった過去が有ります。人間業でない不思議を見せられ、自分に取って耳障りの良い、利益が感じられる話につられて簡単に信じて新興宗教に入信しました。しかし、これによって私は大きな苦しみに会うことになりました。ですから、トマスのように疑うという事も大切なことであり、より信仰を強くする助けとなることもあると思います、トマスは、よく考え抜いて信仰を深めるタイプの人であったと思われます。トマスも弟子たちの話を聞いて主イエスの復活を信じたかったのだろうと思います、しかし、自分で確かめないと気がすまない性格ゆえの正直な反応を示したのではないでしょうか。イエス様は自分で確かめたいと思いながら、自分に求めて来る者には必ず答えを下さる方であります。ここでもイエス様はトマスの思いに目を留めてくださっています。トマスが復活を確かめられるようにと、イエス様が現れてくださいました。26節~29節を読んでみたいと思います。8日後、トマスにイエス様が現れてくださいました。トマスの疑問に応え、忍耐強くトマスにご自身を示しつつ、本当の信仰がなんであるかを語らました。さらにイエス様は「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と見ないでも信じる事のできる者に対しての幸いを教えられました。自分が納得できる証拠を求めないでも、弟子たちの目撃証言によって復活を信じることを願われたのです。「あなたは見て確証を得た。そして今信じた。しかし、見たり感じたりすることなく、証明されることもなく信じる者は幸いなのだ」と。これに対してトマスは28節で「トマスは答えてイエスに行った。「私の主。私の神よ。」と答え、イエスの復活を信じ、神として認めました、これはトマスの信仰告白であります。私たちはトマスがこの出来事の後、すぐに信仰を告白した態度から、確信することが出来たら躊躇せずに信仰を告白し行動に移して救いを得ることの大切さも教えられたいと思います。ではトマスや弟子たちのように、よみがえられたイエス様を直接見たり触れたりすることは出来ない現代に生きる私たちはどうすればイエス様の復活を信じることが出来るのでしょうか。31節を読むと、そんな私たちのために、このトマスのエピソードが聖書に記されている事が解ります。このエピソードによって私たちはトマスとともに復活の事実を確かめ信じるようにと勧められているのです。

「見ずに信じる者は幸いです」というイエスの言葉は、現代に生きる私たちに強く語られています。見たものを信じるのは誰にでもできる事ですが、私たちは見えない神を信じ、期待する者です。

信仰は、目に見えるものを頼りとするのではなく、感情によらないで、神の言葉に信頼し、それに従うことであります。私たちはそのように日々歩み、信仰を強めて頂きましょう。心騒ぐ時、心をひどくかき乱される時、どのようにして平安を取り戻しているでしょうか。感情をかき立てるのでもなく、なにかしるしを求めるのでもなく、まず神の言葉に信頼しましょう。神の言葉に信頼をおき、神の約束を信じ、心の平安を頂く中で今週の歩みも確かなものにしていきたいと願います。

 

へブル書11章1節2節を読んで終わりにしたいと思います。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」

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