4月17日イースター礼拝のメッセージ

2020年4月12日イースター「イエス様の『おはよう』」

 

<聖書>  そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。マタイ28章8~9節

 

<失望した者たち、終わった者たちのためのイースター>

みなさんはどのような気持ちで今日のイースターを迎えましたか?

最初のイースターの日を、イエスの弟子たちは死の中で迎えました。イエスが十字架で死にました。イエスにかけていた弟子たちの人生設計は終わりました。それどころか、自らイエスを見捨て逃げたのです。輝かしい未来も、自信も、自尊心も、希望も、信仰も、何もかもが死に絶え、失望や後悔、恐れや不安だけが残りました。

全てが終わったはずでした。けれど、最初のイースターの朝、人々は想像もしなかった言葉を聞いたのです。

 

<ここにはおられません>

女性たちは、弔いの続きをしようと、墓へ向かいます。しかし、墓は空っぽでした。天使は言います。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」マタイ26:7~8

 

イエス様は十字架で死んだのです。墓の中にいるべきです。私達は当然「十字架につけられたイエスを捜し」ます。死んだのですから墓の中にいるべきです。けれど、墓からいなくなってしまった。(さらに、ガリラヤに行きなさい、ガリラヤで会おう、と繰り返されます(7,10節)。神に会うとしたら、神殿のあるエルサレムであるべきです。けれど、イエス様は遠いガリラヤへと先に行ってしまう。)

それまでも、イエス様はいつも弟子たちの予想の外にいました。立派な人やお金持ちでなく、正しくない人や嫌われた人のところばかり行く。敵に罰を与えるのでなく敵を愛せよと説く。人々の満足する神様像に合わないから、反感を買い、人々は離れ、弟子には裏切られ、殺された。悲しいことですが、死んだのですから、墓におられることだけは確かなはずです。けれど、またも予想を裏切り、墓は空っぽです。

私達は神様を自分の頭と常識の中で求めます。イエス様を安心し納得できる範囲の中で探してしまいます。けれど、もし私達が墓の中に(諦めの中だけに)、イエス様を、そして自分の人生を探し続けるなら、(自分なりの常識である)エルサレムに、(自分なりの安心である)鍵のかかった部屋にとどまり続けるなら、天使は私たちに言うのです「そこにはおられません。」。

私達は痛みます。悲しみます。死にます。それを否定する必要はありません。しかし、痛みには、悲しみには、死には続きがあるのす。聖書の言う、永遠のいのちとは、死や悲しみの否定ではなく、痛みを、傷を、死を通り、生まれる新しいいのちなのです。イエス様は「十字架につけられたイエス」ではなく、「十字架につけられ、よみがえられたイエス」なのです。

 

<おはよう>

もう先がない。すべては終わった。そんな弟子達の失望や諦めをよそに、墓に入れられて三日目の日曜日の朝、キリストは墓から颯爽とよみがえります。そして、女性たちに出会って言うのです。「おはよう。」(「恵み」や「喜び」から派生した言葉であり、「ご機嫌よう。」とも訳せます。)

なんと当たり前の挨拶でしょう。もっと「ジャジャーン、生きかえったぞ!」でも「すごいだろう!」でも良いのに・・・復活の意味を説明する説教も出来た(例えばルカ24章のエマオヘ向かう2人の弟子たちにしたように)のに・・・

死に勝利した復活の朝。特別な朝です。それなのにいつもと変わらない「おはよう」という朝の挨拶。けれど、それでいいのかもしれません。イエス様は死の、誰もが諦める終わりの、その先を身をもって示したのです。新しい始まりを告げる挨拶をしてくださったのです。女性たちは、恐れ、そして、喜びました。

 

<起きなさい>

この復活の第一声を聞き、以前イエスが語ったある言葉を思い出しました。

「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」マルコ5:39

死んだ少女、打ちひしがれる父親、嘆く人々、そんな場面でイエスはこう言ったのです。周囲の人はそれを聞いて、イエスをあざ笑いました。

少女は眠っていただけなのでしょうか?いえ、確かに死んでいました。イエスは勘違いしていたのでしょうか?いえ、ちゃんと分かっていました。しかし、いのちを与えてくださった神が働いてくださるなら、人々を失望させる死でさえも、終わりではないのです。まるで眠っているかのように、続きのあることだったのです。そして、イエスは少女を、母が娘を優しく眠りから覚ますかのように、まるで毎朝の日常の場面のように「起きなさい。」と言うのです。

「その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。」マルコ5:41~42

 

この少女の場合は蘇生であり、永遠のいのちへの復活とは意味合いが異なりますが、死の先を示されたという面では一緒です。私達は死を恐れます。なぜなら、それが、永遠の終わりであり、全くの無へとつながると理解しているからです。けれど、復活を意味するギリシャ語(アナスタシスは、再び+立つ・起きる)が意味するように、死んだ心も、死んだ身体も、再び起こされる方がいるのです。

 

<恐れてはいけません。>

さらに「恐れてはいけません。」(5,10節)と繰り返されます。復活の後、恐れると言う言葉が、4回出てきます。この原語には、「距離をとる、離れる」といった意味が含まれています。感情や心情だけでなく、姿勢・あり方を表す言葉です。復活と言う出来事は、私達だけでない、宗教熱心なユダヤ人にとっても戸惑ってしまう、簡単には受け止められない、思わず距離を取りたくなる出来事だったのです。

もちろん、驚き、恐れ、身を引いてしまうのは仕方ない。けれど、(ギリシャ語には継続の意味があるので)恐れ続けてはならない、離れ続けてはならない、と語るのです。大切なのは神と共にあることなのですから。

 

女性たちは恐ろしくはあったが(マルコの福音書では気が動転して、一時的に何も言えなくなってしまった、とあります)、同時に「大喜びで」弟子たちに知らせに行きました。分からないことだらけ、恐れ続けずに、距離を取り続けずに、応答したのです。それにイエス様も応えてくださり、ガリラヤで、と言いながらも、この女性たちに出会い「おはよう」と言ってくださった。

分からなくてもいいのです。疑問があってもいいのです。大切なのは、離れ続けないこと、少しでも復活のイエスに応えていくこと、近づいていくことです。キリストが必ず応えてくださいます。(そして安心してください。疑い続ける男性たちや逃げていく弟子達にも、イエス様はわざわざ会いに来てくださったのです。)

 

<あなたへの「おはよう」>

宗教改革者マルチン・ルターは、その信条(宗教行為ではなく、一方的なキリストの恵みによって救われる、という主張)のゆえ激しく攻撃されました。勇敢でしたが、次第に身も心も疲弊し、落ち込んでいきます。

ある朝、ルターが起きると、家にはロウソクが灯され、妻ケーテが喪服を着て立っていました。

ルター「どうした?誰か死んだのか?」

ケーテ「神が死なれました。」

ルター「神が死ぬわけないだろう。イエスはよみがえったのだ。」

ケーテ「ではどうしてあなたは、まるでイエスがよみがえられなかったかのように、失望しているのですか?」

なんと強烈な一撃でしょう。ルターは再び信仰の目を覚まし、勇敢に歩み出しました。

イエスはケーテを通して、「おはよう」と、「起きなさい」と、言われたのです。

 

あなたは、もうだめだ、もう無理だ、もう終わった、そう諦めていることはありませんか?

このイースターの朝、イエスはそんなあなたの前に立ち、死に打ち勝った姿を示し言われます。「おはよう。」

周囲があなたを死んだものとして諦める時、イエスはあなたの傍らに立ち、手を取って言われます。「タリタ、クミ(起きなさい)」

私達は遅かれ早かれ、やがてこの地上での命を終えます。人生を振り返り、全てに別れを告げ、ゆっくりと目を閉じ、全てが消え去ると思われたとき・・・あなたは主イエスの声を聞きます。「起きなさい。」

イエスはあなたの手を取り、あなたの目の涙をぬぐい、ほほえみかけて言うのです。「おはよう。」

 

イエスは言いました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25そして続けます。「このことを信じますか」(同26節)

 

<祈り>イースターによみがえられた復活の主よ。日々失望する私達の前に立ち、「おはよう」と語りかけてください。目の前の困難や死を超えたものがあるのだと、弱い私達に示し、手を取って私たちを起こしてください。

そしてやがての日、死を迎えたその日、私たちの手を取り、新しい復活のいのちへと私達を起こし、語りかけてください。「おはよう」と。復活の主、イエスの御名によって祈ります。アーメン

Top