今週の聖書4月11日~17日

おざく台教会毎日の聖書 4月11日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

4月11日(月)ヨハネの福音書17章1~11節

3節「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』

永遠のいのちとは、私達の不完全で、愚かで、罪深い生涯が、時間的な永遠さをもって続くことではありません。(むしろそれは永遠の地獄、永遠の滅びです。)そうではなく、神とキリストを知ること、神との関係の中で永遠に生きることです。そこには、喜びが、安心が、慰めがあるのです。

永遠のいのちは、いつか死後に与えられるものではありません、今、この時、すでに始まっているのです。

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」第一ヨハネ5:12~13

 

 

4月12日(火)ヨハネの福音書17章12~26節

26節「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

「大祭司の祈り」とも呼ばれるヨハネ17章の最後の晩餐での祈りは、このように終わります。神の愛が私達の中にあり、神が、キリストが、私達と共に、私達の内に、あることを求めています。そして、このイエスの祈りと願いは十字架によって実現しました。

神の愛が、神の臨在が、私達と共に、私達の内にあるのです。

 

 

4月13日(水):ヨハネの福音書18章1~27節

25節「一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。『あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。』ペテロは否定して、『そんな者ではない』と言った。」

私達は神の子として、イエス様の弟子として、歩めているでしょうか?言葉で、行動で、ペテロ以上に何度も『そんな者ではない。』と、「私はイエスの弟子ではない」と、「自分とキリストとは関係がない」と、表明してしまったことでしょう。

けれどイエスはペテロの弱さを、私達の愚かさをご存知で、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と事前に言われたのです。何度誤っても、どれだけ罪を犯しても、そのたびに赦しを受け、立ち直り、再び歩み出すのです。

 

 

4月14日(木)ヨハネの福音書18章28~40節

37,38節「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。』」

発見されている聖書の一番古い写本とされる「ライランズ断片」は、このピラトの質問「真理とは何ですか?」の部分が書かれています。なんだか象徴的ですね。私達は真理を探しに、図書館にこもったり、世界中を探して回らなくても良いのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われた方ともう出会っているのですから。

 

 

4月15日(金)ヨハネの福音書19章

28&30節「 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。・・・イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

キリストは「完了した」、と言われました。私達の罪の代価はすでに支払われ、救いへの道はもう完全に開かれたのです。あとは、受け取るだけ、応えるだけ、なのです。キリストに十字架に私達が付け加えることの出来るものは何もないのです。

愚かなままでも、醜いままでも、知識が足りないままでも、正しく歩めないままでも、私達は十字架のゆえに神と出会うことが出来るのです。

 

 

4月16日(土)ヨハネの福音書20章

27~29節「それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』」

復活の主イエスの手には十字架の釘の傷痕が、その脇腹には槍によってあけられた穴がありました。偉大なる栄光の神の復活の身体には、しっかりと苦しみと悲しみの痕が刻まれていたのです。私達の神は、痛み、傷つき、苦しんだ神なのです。

あなたの内側にある傷や、痛みや、苦しみを恥じることはありません。主イエスはそれらを身をもってご存知です。そして、新しいいのち、復活のいのちとは、それらを否定することではなく、それらを経験し、それらを通して生まれたいのちだったのです。

 

 

4月17日(日)ヨハネの福音書21章

17節「イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」

 

三とはユダヤで完全数、三度とはただの回数でなく、「完全に」という意味を持っています。イエス様を3度知らないと言い「完全に」裏切ったペテロに、イエス様は三度(14節)復活の姿を示し、三度尋ねました。「あなたはわたしを愛しますか?」人がどれだけ拒もうとも、神は完全に、永遠に、私達を愛し、信頼し、役割をゆだねてくださいます。安心してください。あなたは永遠に、完全に、愛されているのです。

 

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