毎日の聖書4月18~24日

おざく台教会毎日の聖書 4月18日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

4月18日(月)第1列王記19章

11~12節「風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」

人は4つの声を聞くと言われています。自分の声、人の声、悪魔の声、神の声。3つの声は大きく響き耳障りも良いかもしれません。しかし神の声は、小さくか細い時もあります。あなたの心が静かでないと、あなたが耳を澄ませていないと、上手に聞き取れないことが多いのです。一方的に願いを語るだけでなく、慌ただしく一瞬だけ耳を傾けるのでもなく、ゆっくりと静まり、耳を澄ませてみませんか?
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10章17節

 

 

4月19日(火)第1列王記20章

42節「彼は王に言った。「主はこう仰せられる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」」

今日の日本では、列王記の頃のような戦はありません。しかし、列王記から教えられるのは、信仰の戦いとは、敵との戦い以上に、神と神の言葉とに背く自分自身との戦いであるということです。私達の本当の敵は、私たちの内側に潜んでいるのです。私達が今日一日も信仰の闘いに、罪との戦いに、勝利できますように。

 

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」第一テモテ6章12節

 

 

4月20日(水):第1列王記21章

29節「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」

バアル礼拝をイスラエルに持ち込み、残虐な行為をしたアハブ。彼のせいでどれだけの人の人生が狂わされたでしょうか?こんな人が赦されていいわけはない、私はそう感じました。それなのに、神はアハブを、そして、私が決してゆるせないあの人をも赦してしまうのです。キリストの十字架のゆえに。

ただ、誰かを責めている時の私は、アハブのようにすらへりくだれていないことを、十字架を見上げられていないことにもまた気付かされます。簡単に「人を赦しなさい。」とは言えません。けれど、自分が神の前にへりくだれているかだけには、気を配ってください。へりくだりのさきに、自分の、そして人の赦しがあるのです。

 

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」第二歴代誌7章14節

 

4月21日(木)第1列王記22章

6節「イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、彼らに尋ねた。『私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。』彼らは答えた。『上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。』」

人は自分の耳に心地よい言葉を好みます。しかし、偽りの言葉をどれだけ集めても、何の解決が得られるでしょう。耳に心地よくなくても、自分にとって都合が悪くても、神の言葉に耳を傾けるのです。あなたが、耳を閉ざしていた言葉はありますか?今日、そのうちの一つに応答してみませんか?

 

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」マタイ4章

 

 

4月22日(金)第2列王記1章

16節「王に言った。「主はこう仰せられる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てにやったのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは、上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」」

エリヤは、偽りの言葉でなく、神の言葉に聞け、と厳しくせまります。わたしたちはすでに聖書を手にしています。真理の道がすでに用意され、語られています。後は応えるだけなのです。昨日の言葉に加え、もう一つ、耳を閉ざしていた言葉、目と心を閉ざしていた神の言葉に応答してみてください。

 

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」マタイ7章24節

 

 

4月23日(土)第2列王記2章

14節「彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられるのですか』と言った。彼も水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。」

エリシャの師であるエリヤが取り去られました。これからはエリシャが自分自身で神に従うのです。優れた指導者やあなたが頼りにしていた人も、いつかはエリヤのように取り去られるタイミングがあります。だからこそ今、あなた自身が自分の足で立ち、信仰によって一歩を踏みだすのです。

 

「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」第二コリント4章16節

 

 

4月24日(日)第2列王記3章

16節「彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』」

神が語るなら時、私達の常識から外れたことであっても、応えた時に奇跡のような出来事が起こるのです。あきらめてはいけません。あきらめないで、たとい荒地に見えても、チャレンジして、そこに、みぞを掘らねばなりません。あなたにとってみぞを掘るとは、何を意味していますか?

 

「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」へブル10章38節

Top