9月26日のメッセージ

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2021年9月26日「困難の時に知っておきたい聖書34~先立つ神~」

 

<聖書 イザヤ書>

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」詩編46:10

「汝ら静まりて我の神たるを知れ。」詩編46篇10節(文語訳)

 

<ファミリータイム ヨシュア記>

10 ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」・・・

12 翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。13 七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛をもって、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱の後ろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。14 彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。15 七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは、七度町を回った。16 その七度目に祭司たちが角笛を吹いた時、ヨシュアは民に言った、「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったから。・・・

20 そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。

 

<壁を目の前にして>

ヨシュア記に入り、カナンの地という新しい状況に向き合ったイスラエルを通して、私たちも新しい状況の中でいかに歩むかを見ていきたいと思います。新しい状況には、大小さまざまな壁が立ちはだかります。・・・イスラエルの前には文字通り大きな城壁の町がありました。

少し振り返って考えていただきたいのですが、新しい状況に限らず、皆さんの前に大きな壁として、自分の力では決して崩れることがないものとして、立ちはだかる壁は何でしょうか?困難な状況、大切な人の頑なな心、自分では変えられない古い罪の性質、難しくなった人間関係、などなど・・・・みなさんはそれらにどのように向き合おうとしていますか?

 

<不思議な準備>

イスラエルも、目の前の壁に対していろいろな対応がありました。城壁を崩す方法を開発する。カナンの地を諦める。妥協してエリコと交渉する。他の町と同盟を結んで闘う。彼らもいろいろと思案したでしょう。

 

けれど、神様はイスラエルに、不思議な準備をさせるのです。

まずは、3章でヨルダン川を神の奇跡により無事に渡った記念に、4章で石を担いで積み上げ記念とします。神のしてくださったことを、先祖代々、繰り返し思い返すのです。

そして、5章では、割礼をします。これは今日の洗礼にあたる行為ですが、自分が神のものであること、神が自分を決して離れず、決して見捨てないことを文字通り身に、心に、魂に刻むのです。

また、過ぎ越し祭りを祝います。これは、最後の晩餐や、今日の聖餐式につながる行為ですが、同じく神様の救いを記念する行為です。

 

壁を目の前にして、時間と手間を使って、なんと無駄な、闘いに関係のないことをしているのでしょう?

けれど、イスラエルはこれらの行為を通して、壁の大きさでもなく、問題解決の方法論でもなく、心を神にしっかりと向けるのです。なぜなら彼らの戦いは、単にエリコとの戦いではないからです。

 

前回のお話と通じますが、創世記3章以来、私たち人間の本当の闘いの本質とは、自分の創造者である神の言葉を信じるか、造られたものにすぎないヘビの知恵を信じるのか、の闘いです。

本当の闘いは、戦いの結果や優劣ではなく、どちらに知恵にしたがうかにあるのです。その戦い方により、私たちは神に似たり、ヘビに似たりしてきてしまう。良いものを生み出したり、悪いもの生み出したりする。だから、神の子にとっては、安易な結果以上に大切なことがあるのです。そして、へブル11章30節「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」とあるように、神に信頼するか否かというこの本当の闘いに勝ちました。

エリコの戦いは、約束の地カナンでの最初の戦い。40年前に恐れ失敗し、荒野の40年へとつながった戦いのリベンジマッチであり、今後の彼らの生き方にまで影響する戦いです。私たちの日々の信頼は、これからにもつながるのです。

 

<先立つ神>

実際の戦いも不思議な戦いでした。神の臨在(神が共にいてくれること)を表す「契約の箱」を担ぎ、エリコの城壁の周りをまわります。完全数を、つまり、神とのかかわりを表す7人の祭司、7日間、7回です。

そして、神様はヨシュアを通じて、不思議なことを言います。10節「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」 戦わないだけでない、話し声も響かせてはならない。けれど、ただ黙っているのではありません。

文句を言うのでも、他の知恵に流れるのでもなく、静まりながら、注意深く見ながら、祈りつつ、耳を傾け、神様に集中するのです。

 

そして、不思議なことに、難攻不落の城壁は崩れ、イスラエルは町を攻めとることができました。けれど、イスラエルは、神様が共にある方、むしろ先立って戦ってくださることを、学んだのです。私たちの神様は「先立って行かれる」神様です。

 

申命記1:30 「あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。」

詩編68:7 「神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき」

 

ヨシュアたちは壁を恐れましたが、しかし、壁の向こうでは、神様が先立ち、エリコの人々が、ヨシュア達を、ヨシュア達を導く神様を恐れるようにしていた(2:11、5:1)。目の前の壁は高く見えても、すでにその向こうで神様が働いていた。きっと失敗をした40年前も同じだったでしょう。私たちは、目の前の状況を恐れるのではなく、解決策を探し回るのでもなく、まずは共にあり、先立って行かれる方に目を向けるのです。

 

もちろん毎回城壁が崩れたわけではありません。けれど、この後も様々な方法で神様は先立ってくださった。

神様はいつも、最善へと導こうとしてくださる。かつてこんな言葉を聞きました。

人が働くとき、人が働く。人が祈るとき、神が働く。(When men works, men works. When men prays ,God works)

 

黙るというのは、何もしないとか、楽をするという意味ではなく、その状況に、ヘビの知恵と方法ではなく、本当に良い知恵と方法をもって、最善へと導いてくださる神様の手に期待することです。

出エジプト記14:14「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」詩編46:10 「汝ら静まりて我の神たるを知れ。」詩編46篇10節(文語訳)

 

<キリストの砕いた壁>

この究極の姿がキリストです。キリストは、裏切られた時も、不当な裁判を受けた時も、ただただ黙っていました。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」イザヤ53:7と旧約聖書で預言されていましたが、裏切りや裁判など十字架の前の沈黙は、読んでいて不思議なほどで、どうして何も言わないのか、何もしないのかと、もどかしいほどでした。

けれど、今日の箇所を読んでいて気づかされたのですが、ただイエスは黙っていたのではない。先立ってくださる神様に信頼し続けていた。神様は必ず先立ち最善へと導いてくださると信じ続けていた。

そして、苦しんだイエス様には申し訳ないですが、神はイエス様と共に十字架を通して、死という、誰も壊すことのできない城壁を打ち砕いてくださった人がいた。

「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」第二テモテ1:10

イエス様は神様を信頼し、誰もが壊せず敗北してきた、死と罪の壁を完全に打ち砕いてくださったのです。

 

黙っているとは、私たちも、壁を前に何もしなくていいわけでもなく、不当なことに声を挙げるなという意味でもありません。大切なのは、先立ってくださる神様、最善へと導いてくださる、信頼です。

私たちは、神から「生きよ」と言われて送り出された、この地上の毎日を全力で生きています。けれど、沈黙は、心の、魂の余白、良い神様への信頼を養いはぐくむ、大切な場所なのです。

 

<今週の黙想>朝毎に、壁に向き合う度に、短くとも沈黙の時間を持ちつつ、新しい週をあゆんでください。

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