9月5日のメッセージ

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2021年9月5日「キリストの実⑨~自制~」

 

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。    ピリピ人への手紙

 

4:5 だが、カインとそのささげ物には、目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。      創世記

 

<罪を支配する難しさ>

自制(self control)の原語は、エン(中に)とクラトス(支配)が合わさって出来た言葉で、節制とも訳されます。しかし、私たちの内側にある、罪深さ、高慢さ、悪への傾向、不安定な感情、それらを、しっかりとコントロールすることは難しいのです。特に今のような困難の時には。

かつてある牧師が「私達の内側にある罪の心は、怒りや不満、悲しみなどを餌に大きく成長する。」と話してくれました。そして、思い煩い続けるなら、心の中の罪は大きく膨らんでいきます。神様はカインに。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」(創世記4:7)と語りますが、私達も他人ごとではありません。罪は、私たちの心や魂を、時にゆっくりと蝕み、時に激しく狂わせます。「だが、あなたは、それを治めるべきである。」と続きますが、自制はとても難しいのです。

 

<人とは顔を上に向けてこそ>

『カインとアベル』では印象的な言葉が繰り返されます。「カインはひどく怒り、顔を伏せた。 そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」(創世記4:5~6)カインは『顔を伏せ』ていたのです。

面白いことに人間という言葉は、ギリシャ語でアンスローポス。『顔を上に向ける者』という言葉です。(旧約聖書はヘブライ語ですし、新約聖書が記される前からギリシャ語はありましたが)パウロは、人間とは、顔を上に、天に、神に向けるものだ、神と向き合い、神の愛を受けてこと、神に素晴らしく想像された人間らしくいられるのだ、きっとそんな思いをもってこの言葉を用いたのでしょう。

人として、天に、神に向いているはずのカインの顔が、伏せられ、一人自分の中で思い煩っていた。妬みと恨みの中で、横にいるアベルに向いていった。そして、次第に人間らしさを失い、まるで獣のように、自分の弟を手にかけるのです。

私達は、自分の心に一人静かに向き合うことも大切です。人に顔を向け、人とのかかわりに生かされもします。しかし、神様との(縦の)関係が土台にないと、時に自分を見失ってしまうのです。

 

<神が求めている、あなたの顏を上に>

そして、神様ご自身も私たちの顔を求めているのです。神様が言った、「正しく行ったなら受け入れられる」(新改訳2017の欄外別訳:「顔を上げられる」)、という不思議な言葉。もしこれが立派さを求めた条件なら、誰一人神様に顔向けできる人はいないでしょう。しかし、この「正しく」という言葉は、喜んで、嬉しくて、という意味を持つ言葉です。さらに原語では反語表現が使われていて、「喜んで行っているなら、顔を上げられないはずがないだろう?」とも訳せます。

神様に食物を与えられている、日々生かされている、その感謝と喜びをもって、アベルは上を見上げて歩んだのでしょう。そして、神様は、アベルのささげ物でなく、アベルの心そのものを喜んだ。神様はカインのささげ物を拒んだのではなく、カイン自身の心を、カインの顔そのものを求めたのです。

 

ピリピ4:6~7には、立派な心で神に向かえとは一言も記されていません。思い煩ったままでいいから、どんな身勝手な願い事でもいいから、神に知ってもらいなさい。神は全てのことをごご存知なのになぜ?それはあなたの顔が、心が、上に向くことが大切だからです。

私の心は立派でない・・・そんな風に思わなくても大丈夫です。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17

私たちが見上げると、神様と目が合います。親が子を見るようにずっと私たちを優しく時に心配して見守っている天の父の視線に気付くわけです。そして、神様と一緒に、私達の内側の問題も、外側の問題も取り扱ってくださり、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 

<それがどんな心でも>

聖書の詩篇の中には、自分の恨みや怒りや悲しみを、好き放題神にぶつけるような詩篇がたくさんあります。(呪いの詩篇と言われます。)時には神を非難する言葉まであります。なんで聖書にこんな内容が・・・と思わず読み飛ばしたくなります。でも正直でいいのです。自分の中で思い煩い、罪の心に餌をやるよりは、その罪に満たされ、誰かを傷つけるよりは、顔を上に向け、正直に神にすべて持って行けばいのです。呪いの詩篇は、最初は不満や怒りを述べていますが、次第にその罪の心が溶けて消え去るかのように、感謝や賛美の歌に変えられていきます。

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」神様は罪を治められるといっています。もちろん自分一人ではできません。(自制の原語には、自分一人でするという意味はなく、ただコントロールするという意味です。)ですから、上を見上げ、神様との関係の中で、一緒にするのです。カインも、顔を伏せていないで、顔を上げて、不満や怒りや妬みを神に正直に向けていたら・・いつもそう思います。

 

恨みや怒りがあれば、どうかあなたの顔を上げ、十字架のキリストを見上げてください。私達のためにも、私達が恨み怒っている人のためにも、十字架にかかられた方の顔を見て、心をそのままを打ち明けてください。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」イザヤ45:22

悔い改めとは、方向を変える、という意味があります。私たちが、下でもなく、横ではなく、顔を上げた先の十字架にこそ、救いがあるのです。

 

<今週の黙想> 今週を祈りの週としてみてください。何かあるごとに心を上に向け、あなたの喜びも、悲しみも、失敗も・・・祈りを通して、神様に持って行ってください。

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