8月29日のメッセージ

IMG_20210828_152205

 

2021年8月29日『キリストの実⑧~柔和~』

 

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。       マタイの福音書5章5節

37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。 37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。 37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。 37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。 37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。 37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。 37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。 37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。 37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。                            詩篇37篇

 

<聖書でいう「柔和さ」>

御霊の実、8つ目は「柔和」です。「柔和」には、おだやか、物腰が柔らかいという印象がありますし、原語(プラウテース)にも「やさしい」、「親切」という意味があります。けれど、新約聖書の言葉は、旧約聖書との関連で見る必要もあります。すでにイエス様の時代にはギリシャ語に翻訳されていた旧約聖書(70人訳)その詩編37篇11節では同じ言葉が使われ「貧しさ」と訳されています。(マタイ5:5と詩編37:11はほぼ同義です)

もとの旧約聖書(ヘブライ語)を見てみますと、この言葉(アーナーブ)は、ただ優しい・親切という意味に加え、貧しい、悩む、苦しむ、苦しめられる、抑圧される。辱められる、へりくだる、身を低くする、という意味があります。ですから、ただの物腰の柔らかさではない、難しい状況、乏しさ、苦しみ、など、私たちの心が弱り、内側にある罪の性質が大きく表れそうな状況の中でも、身を低くし、優しい、といった意味なのです。

 

けれど、それはとても難しいのです。誰かによって状況が悪くさせられそうならば、私たちは何とか主導権を握ろうと動き出します。状況や悪意に対応すること自体は問題ありません。しかし、怒りや恐れが心を満たし、相手の悪以上に、自分自身の内側の罪と悪に心が満たされ、我を失ってしまうのです。

 

<戦いの人ダビデの柔和>

表題にダビデによる、とある詩編37篇は自分を苦しめようと相手への姿勢が出てきます。ダビデは戦いの人であり、悪意には毅然として立ち向かいます。けれど第二サムエル16章10~12節では、自分の命も立場も脅かされたまさにその時、シムイという人物が自分に向かい石を投げののしってきました。部下は剣を取りますがダビデは部下を止めて、こういうのです。

王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ』と言えようか。」ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」第二サムエル16章10~12節

 

ダビデにとっては悪意を持った人の存在よりも、相手から受ける害よりも、より大切なこと、もっと気にすべきことがありました。それは、「主が・・ご覧にな」っている自分自身の心、自身のあり方でした。

詩編37篇では、自分の心を見張ること、自分の心が相手と同じ悪に満たされないこと、そのためにも神が自分の心を見て、きっと良くしてくださることに信頼すること、が繰り返されています。

もちろんダビデは実際に行動する人でした。けれど、状況や人に対して行動するにしても「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4:23とあるように、絶えず自分の心の在り方に、具体的には神への謙遜と信頼があるかどうかに、気を配っていたのです。

今回だけではありません、サウル王に何度も命を狙われた時も、彼はチャンスがありながらも何度も剣を収め、相手と同じ悪の道に進まずにすみました。心の在り方が、行動に表れたのです。

詩編37篇の地を受け継ごうとは、単に土地(繫栄)だけでなく、神の祝福を意味します。ダビデは「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩編27:4)と歌ったように、神様との関係を何より求める人でした。戦いの人でありながら、神との関係の中で、神様の良い性質が、表されていきました。

逆に、怒りや、復讐心や、マウントを取ろうとする(主導権を握ろうとする)心からは、神様のすばらしさは表されないのです。(ダビデは危機の時は強かったのですが、逆に平穏な時には自分の在り方を見失い、神と人の前での謙遜さを失い、多くの罪を犯していきました。)

 

<あなたの柔和さ、あなたへの柔和さ>

柔和さとは、何もしないことでなはありません。忍耐・謙遜・愛と一緒に用いられ、使徒達は、困難な状況でも、難しい人でも柔和さを失わず人にかかわるよう教えました。「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」第二テモテ2:25(他、第二コリント10:1、ガラテヤ6:1、テトス3:2、エペソ4:2、「柔らかな答えは憤りを静める。」箴言15:1)

そして、御霊の実に数えられるように、神様との関係の中で、生み出されていくものです。ダビデも優れていましたが、真の柔和さは、王でありながら、獅子でも象でもなく、力ないロバの子に乗って、エルサレムに来られたキリストにこそ表されています。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』 マタイの福音書21章5節

そして、私たちがどれだけ反抗しようが、無視しようが、私たちに怒りを向けるのでなく、イザヤ53章にあるように、私たちの罪を黙って背負い、十字架へと向かってくださったのです。

 

そして真に柔和な方は私たちに呼びかけます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 マタイの福音書11章27~29節

<今週の黙想>詩編37篇とイザヤ53章を読みながら、自分の心に見張って歩んでみてください。

キリストの柔和があふれ、あなたを通して神様の良い心が実現していきますように。

Top