毎日の聖書(8月23日~8月29日)

おざく台教会毎日の聖書 8月23日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

8月23日(月)レビ記17章

11節「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

血は命そのものです(14節)。イエスが血を流し、命を注ぎ出し、私達はその命を受け、死んでいた霊が生き返りました。罪に死に、神に対しては生きたのです(ローマ6:11)。あなたは新しく生きていますか?

 

「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」ローマ6章10~11節

 

 

8月24日(火)レビ記18章

4~5節「あなたがたは、わたしの定めを行い、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは主である。」

定めやおきてと聞くと窮屈そうに響きます。しかし、罪に歪んだ人間は、この個所の後に続くような不品行を平気で行う異常な状態にあるのです。神の定めとは、人にとって本来当たり前のことを当たり前に行うことができるようになる「手引き」(ヘブライ語トーラー)と理解されました。私たちには、道しるべが、案内人が必要なのです。少し長いですが、詩編119篇を開いてみてください。

 

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩編119篇105節

 

 

8月25日(水)レビ記19章

18節「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」

愛したくない人、たくさんいますよね?けれど神は繰り返し語ります。「わたしは主(ヤハウェ:神の名)である。」この自己紹介には、「価値無きあなたを愛し救った神」という意味が込められています。私達は愛される価値無き人でありながら愛されたのです。その愛にどう応えましょうか?どのように愛したくない人に接しましょうか?

 

「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」ヨブ記7章17節

 

 

8月26日(木)レビ記20章

26節「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。」

これは神の「選び」、とも言われます。立派だから、優れているから、選ばれたのですか?違います。一方的な神の憐れみであり、神のように人を愛するものとして選ばれたのです。責任重大ですね。でも、それほどまでに神は私たちに期待しているのです。

 

「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」Ⅰペテロ2章9節

 

 

8月27日(金)レビ記21章

23節「ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれらを聖別する主だからである。」

身体に、頭に、心に、魂に罪の影響を嫌と言うほど受けたのが私達人間です。しかし、新約の時代には、欠陥だらけの私たちに、神のほうから近づいてくださいました。そして、イエスの十字架によって私達をきよめ、神に近づかせてくださるのです。

 

「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」エペソ3篇12節

 

 

8月28(土)レビ記22章

33節「あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。」

神様は私達の神となりたかったのです。私達が偽りの神々に、心も生活も支配されることを悲しまれ、私達を選び出して、導き、助けたかったのです。あなたはこの方を神としていますか?それとも私たちを愛し、私たちのために十字架で死なれた方以外の他の何かに仕えて、導かれていますか?

 

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」出エジプト20章3節

 

 

8月29日(日)レビ記23章

3節「六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」

安息日とは、奴隷の労働からの解放を、神の救いを、身をもって味わうための日でした。

一方今日はなかなか完全な休日はありませんし、あってもしたい事、すべき事が山ほどあります。しかしこの休みの時間が人の魂や霊性を養うのです。

「安息日の主」(ルカ6:5)であるイエス様は安息日にも人を助けましたが、しばしば人々から離れては、神様との時間を確保しました。1日とは言いません、1時間、全き休みを確保し、ただ神にだけ全存在を向けてみませんか?

 

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」詩編27篇4節

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