8月22日のメッセージ

2021年8月22日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ⑦~誠実~」

 

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32

 

「イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』・・・イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」ヨハネ21:17

 

<自分の確かさではなく、神の確かさ>

御霊の実(神が信仰者にもたらしてくれる性質。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5章22~23節より)の7つ目は誠実(Faithfulness)です。

「誠実」はギリシャ語でピスティス、これは人から神に対して使われる場合には「信仰」と訳される言葉です。神様から人に対して用いられるときは主に「真実」となります。人から人へは、「誠実」といった具合に、訳されることが多いようです。そして大切なのは、このピスティスには主に、旧約聖書では約束を貫く愛を意味するヘブライ語の「ヘセド」が対応し、恵み、慈しみ、などとも訳されます。元の意味に「堅固さ」があるように、約束の確かさ、愛の変わらなさ、がカギとなる言葉です。

 

私たちは婚約や結婚の際に誓います。「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、誠実を尽くし(Faithful to ~)共に歩むことを誓いますか?」

結婚だけではありません、私たちは、日々、神に人に、そして自分に誓います。神への愛と感謝を忘れずに生きよう。今日こそ、人に対して寛容であろう。仕事や学業、自分の勤めに真剣でいよう・・・と。

 

しかし、私たちは、堅固でないのです。もちろん、良い時もある。けれど状況や感情によって、最初の誓いと決心は吹き飛んでしまう。そして、心に決めたことを貫けなかったり、過ちや妥協を繰り返していくうちに、どうせ自分はと、決心したり誓ったりすることすらあきらめてしまうのです。

 

けれど、決してあきらめてはなりません。初代教会も同じような課題がありました。そこで、聖書には、古代の讃美歌の一節が記されています。その歌詞は、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」第二テモテ2:13というものです。

信仰において大切なのは、私たちの確かさなのではない、神の確かさなのだ、という歌詞です。歴史の教会は、落ち込むたびに、諦めたくなるたびに、この賛美歌を歌いました。自分の意志の強さでなく、神の変わらなさに生かされていたのです。

 

神が変わらないというのは、神様に感情がないとか、機械仕掛けのような存在というわけではありません。神様は、人とのかかわりの中で、私たち以上に、喜び、悲しみ、後悔する方です。私たちのことで、一喜一憂する方です。けれど、どんな時も決して人をあきらめない、という意味で変わらない方です。

思い返していただきたいのですが、聖書の人物、アブラハムも、ダビデも、ペテロも、失敗だらけでした。けれど、あなたを愛すると、あなたを通して人々を祝福すると誓った神様は、その約束を貫き通し、何度でも何度でもあきらめずにかかわってくださるのです。

イエスは、ペテロが自分を見捨てると、イエスなど知らないと3度も拒むとわかっていて言ったのです。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32

普通なら、裏切るなら、見捨ててもいいのです。逃げ出すなら、期待しなくてもいいのです。けれど、イエス様はペテロをあきらめず3度自分を拒んだペテロに、『あなたはわたしを愛しますか』と3度たずねてくれた。(ユダヤで3は完全数なので、つまりは完全に受け入れてくださった。)

そして、あなたを愛しますよ、では終わらない。期待を捨てずに、『わたしの羊を飼いなさい。』」

と再び役割を与えた。こんな噓つきはあきらめたほうがずっと楽なのに、アップダウンの激しいペテロと、ともに歩むのはしんどいことなのに。「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」(へブル13:5)とかかわり続けてくださったのです。

 

そして、イエス様は、私たちが神に背を向けるたびに言うのです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」そして、何度でも何度でも、「あなたはわたしを愛しますか?」と尋ね続けてくださるのです。

 

<救いさえも、キリストの真実によって>

私たちは、始めから終わりまで、神のたしかさに、神の変わらなさに生かされるのです。

ガラテヤ書に「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって(新改訳2017別訳:キリストの真実によって)義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって(新改訳2017別訳:キリストの真実によって)義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」ガラテヤ2:16という有名な箇所がありますが、「イエス・キリストを信じる信仰による」、という箇所が、新しい翻訳、新改訳2017だと、欄外に別訳として「イエス・キリストの真実によって」、と記されています。(ローマ3:21~22も同様です。)

 

私がお世話になった牧師が、この個所を以下のように説明していました。聖書における「義とされる」とは「神と良い関係を持つ者とされる」という意味ですが、あたらしい翻訳では、それが私たちの側のキリストへの信仰にかかっているのでなく、キリストご自身の真実さにかかっているというのです。

もし私たちの救いが私たちの信仰の強弱にかかっているなら、私たちの救いは知識の量、理解や確信の度合い、に依存することになります。するといつまでも、愛されている、救われている確信が持てないのです。

しかし、信仰が強いから弱いからではなく、確かで真実な方に主イエスに心を向けて助けを乞うならば、主は真実で確かなお方だから、私たちを受け入れてくださる。だからこそ恵みであり、福音なのです。

確かに罪を犯すならば、現実には、蒔いた種の実の刈り取りを、場合によっては生涯、求められるかもしれません。そうした時にも主イエスが人生の同伴者として蒔いた種の実を一緒になって拾ってくださり、究極的に主の赦しの愛の中に置かれるのです。

晩年のペトロは、祈る度に涙を流していたと言われています。それは心から愛している主イエスを裏切ってしまった自らの罪を悔やむ涙であり、同時にそれでも、真実を貫き十字架にまでかかってくださった主に対する感謝の涙だったと言われています。私たちもまた、この神の真実な愛を受けているのです。

そして、自分の確かさでなく、神の確かさの土台に立つとき、私たちの内側に、神と人への誠実の実が結ばれてくるのです。

 

<黙想>朝毎にへブル13:5に記された、キリストのあなたへの誓いを聞いて、一日を始めてみてください。

Top