今週の毎日の聖書(8月16日~22日)

おざく台教会毎日の聖書 8月16日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

8月16日(月)レビ記10章

1節「アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。」

ナダブとアビフは神様を軽んじ、それが行動にも表れ、自分も周囲も不幸にしました。賢人ソロモンは言いました。「神を恐れよ。・・これが人間にとってすべてである。」あなたは神を畏れていますか?敬い、愛し、感謝して生きていますか?それは、あなたの生き方に表れ、周囲にも良い影響をもたらすのです。

 

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」伝道者の書12章13~14節

 

 

8月17日(火)レビ記11章

4節「しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。」

食物既定の意味は、カナン定住の際の他宗教との差別化です。それ自体は食べられますし、悪や罪ではありませんが、神への愛の応答として民は避けることを求められました。今日への適用は難しいですが、Ⅰコリント10章でパウロが指摘するように、食事や生き方に関して、人を裁くのではなく、自分を誇るのでもなく、人へのつまづきに配慮しつつ、神を愛して生きられますように。

 

「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」Ⅰコリント10章31節

 

 

8月18日(水)レビ記12章

8節「もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」

神が創造された素晴らしい出産の後で、どうしてきよめが必要なのでしょう?それは、産んだ母も、生まれてきた赤ちゃんも、罪から贖われるべき存在であることを思い返すためです。何よりも尊く、何よりも汚れている、それでも信じられないほど愛されている。それが私達です。

 

「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」ヨブ記7章17節

 

 

8月19日(木)レビ記13章

45節「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。」

肌の病でこのようにすべきなら、心に、思考に、魂に病を患った私達はどうすべきでしょう?「私は罪人です」、そう告白することを決して恥じないでください(全ての人は罪人なのですから)。神の前に自分のそのままをさらけ出すことから、私達の救いと変化は始まるのですから。

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Ⅰヨハネ1章9節

 

 

8月20日(金)レビ記14章

2節「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。その者を祭司のところに連れて来る。」

病気が治っても、きよめが必要でした。回復には外的(具体的)回復と、内的(霊的)回復があります。何かの出来事が終わっても、未解決の傷や感情は、心と魂をむしばみ、周囲の人にも害を及ぼします。内的な回復、霊的なきよめ、あなたはすんでいますか?

 

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139篇24節

 

 

8月21(土)レビ記15章

23節「それにさわった者は夕方まで汚れる。」

水できよめを済ませたのに、けがれはもう少し続き、その間は神や人と交われません。それは自分と向き合うための時間だったのです。自分の存在が、神の前にどうであったか、問い直すのです。そのような時間、もっていますか?詩篇51篇をゆっくりと読み、黙想してみてください。

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51篇16~17節

 

 

8月22日(日)レビ記16章

34節「これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」

日本の大晦日のように、毎年贖いの儀式が繰り返されていました。しかし、キリストは「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)。自分で自分をゆるせていますか?あなたはキリストにより、もうすでに、完全に、永遠に赦されたのです。

 

「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」ヘブル9章14節

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