今週の聖書(8月9日~15日)

おざく台教会毎日の聖書 8月9日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

8月9日(月)レビ記3章

1節「もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。」

全く傷の無い完全な捧げものは存在するでしょうか?丁寧に捧げものの動物を選ぶ中で、人は捧げものの不完全さに気付かされるのです。負い目を感じながら捧げますが、主は恵みによって受け入れてくださいます。私達の存在もまた同じです。神の愛に良いもので応えたいと願いますが、自分自身の不完全さに失望し、それでも受け入れてくださる神の愛に感動するのです。安心してください、完全な捧げ物は、キリストの十字架によってただ一度、すでにもう捧げられたのですから。

 

「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」ヘブル10章10節

 

 

8月10日(火)レビ記4章

35節「祭司はそれを祭壇の上で、主への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。」

かつては罪を犯す度に、動物の犠牲が必要でした。罪多き私達のためには、いったいどれほどの犠牲が必要でしょう?しかしキリスト自ら犠牲になり、永遠の贖いをしてくれました。十字架のゆえに、あなたが罪に定められることはないのです。今、キリストの犠牲に感謝の祈りを捧げてみましょう。

 

「キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」ヘブル7章27節

 

 

8月11日(水)レビ記5章

8~9節「彼は、これらを祭司のところに持って行き、祭司は罪のためのいけにえとなるものを、まずささげなさい。彼はその頭の首のところをひねり裂きなさい。それを切り離してはならない。 それから罪のためのいけにえの血を祭壇の側面に振りかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出しなさい。これは罪のためのいけにえである。」

人の罪のため、ひねり裂かれ、血を絞り出され、焼かれる、それがいけにえです。あなたは祭壇へとキリストを引いて行き、彼に同じことをしたのです。キリストは黙っていけにえになりました。あなたへの愛ゆえです。キリストが自分の命に代えても惜しくないほど、あなたは愛されているのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節

 

 

8月12日(木)レビ記6章

6~7節「この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。 祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される。」

この人は、迷惑をかけた人に賠償を支払いました。さらに、神の前にいけにえと共に出るのです。罪とは、人と同時に、神に対してのものです。人への、そして神への悔い改めで、済んでいないものはありませんか?

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Ⅰヨハネ1章9節

 

 

8月13日(金)レビ記7章

1節「罪過のためのいけにえのおしえは次のとおりである。これは、最も聖なるものである。」

罪といけにえの記事が繰り返されるレビ記から教えられるのは、私達は神の前に絶望的なほど罪人であり、同時に奇跡的なほど神に愛されているということです。あなたの自己認識はどちらかに偏りすぎ、自己卑下し過ぎたり、選民思想で高ぶったり、してはいませんか?宗教改革者ルターが言うように、私たちは『赦された罪人』なのです。神の愛に感謝し、謙遜に、かつ喜んで生きるのです。

 

「あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く。」イザヤ書30章20~21節

 

 

8月14(土)レビ記8章

35節「主の戒めを守らなければならない。死なないためである。」

この言葉と逆に、死ぬために、主の戒めを守り抜いた方がいます。イエス・キリストです。東方教会では、毎週末ごとに、金曜日、土曜日、日曜日と、十字架の受難と復活に思いを巡らすそうです。黙想の時間、十字架の上のキリストを、あなたのために死なれた方を目の前に思い、あなたのためになされた赦しと救いの業に心をめぐらせてみてください。

 

「私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」コロサイ2章14節

 

 

8月15日(日)レビ記9章

12節「アロンは全焼のいけにえをほふり、アロンの子らが、その血を彼に渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。」

人はいけにえを差し出し、それがほふられるのを見ながら、どんな気持ちでいたのでしょうか?その滴り落ちる血を見て、その動物の恐怖と痛みを考え、心が引き裂かれる思いがしたでしょう。しかし、この血こそが、私達の心と魂を生かすために必要なのです。あなたはキリストの流された血のゆえに生きるのです。

 

「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」ヘブル10章19節

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