8月8日のメッセージ

2021年8月8日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ⑥~善意~」

 

10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。・・・10:15わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

 

 

<神のくださった善意、罪のもたらす悪意>

御霊の実(神が信仰者にもたらしてくれる性質。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5章22~23節より)の6つ目は善意です。

 

善意はアガソスーネイという言葉で、善(アガソス)を行おうとする心・意思のことです。<「善」や「良い」、と訳されるのは、アガソス(本質的によい・内面的)とカロス(美しい・価値のある:外面的)がありますが、多くの場合区別なく用いられます。>とくに、聖書で言う「善」や「良い」とは、個人にとって都合の良いこと(第二テモテ4:3)や、社会の中で称賛されること以上に、善であり、良い方である神に基づいたものです。善意とは、神の善い心を、自分も行おうとする、そんな思いと言えます。

 

私から見ても、みなさんは親切で心優しく、いつも善意ある方々なので、心から感謝しています。けれど、どうでしょうか、時に、相手を損なおうと逆に悪意を持ってしまう時、そうまでいかなくても、善意を十分に発揮できなかったりなかったり、がないでしょうか?悪意を持った10節の盗人や、愛と責任に欠けた12節の雇人は、当時の宗教指導者の姿であると同時に、私達の人間の姿でもあるのです。

 

一般に、性善説、性悪説とありますが、聖書ではそのどちらでもなく、神が人を素晴らしく創造してくださったのに、後から罪の性質が入ったと教えます。そして、私たちは神から与えられた良い心以上に、罪の心が大きくなってしまうことがあるのです。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ7:19~20)

 

私たちは生きていればどうしても、痛みや苦しみ乏しさを体験するときがあります。余裕や自信を失い、不安や恐れが心を満たしていきます。そのような時、罪の性質が、痛みや苦しみ恐れや妬みや不安をエサにして、どんどんと大きくなるのです。

<悪意を持つ必要がない>

悪意に捕らわれないように、私たちは、どうしたらいいでしょう。聖書のこうしなければならない、こうしてはならない、という箇所を一生懸命読み、頭の中で繰り返しましょうか?

先日読んだ本で、「律法」(トーラー)とは、「手引き」という意味の言葉だとありました。私達の考える律法とは、十戒に代表される「してはならない」という禁止条項であって、「手引き」とは少し違うイメージです。けれど、してはならないと訳されている言葉は、原語と文法的には英語のYou shall not~に該当し、禁止ではありますが、あなたは~する必要がない、~しなくてもよい、という意味です。

 

様々な神々を求めなくても良い、偶像を造らなくて良い、人を殺したり奪わなくて良い、姦淫をしなくても良い、人のものを欲しがったり、偽りの証言をして人を貶めたりしなくても良い、する必要がない、神は十戒でそう私達に呼びかけるのです。なぜなら・・・私たちには「良い」方がいるからです。

 

~しなくてもよい、という語りかけは、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト記20:1)という言葉から始まります。

すでにもうあなたを救い出し、あなたを助け導くためにこれからもいっしょにいるから。神の善意がすでに、そしていつもあなたに注がれているから、良い牧者であるキリストが、私達を導き、生かしてくれるから、だから乏しさを恐れる必要がない、人に悪意を向け奪い取る必要がない、そういう生き方から解放されるのです。

 

難しい状況に直面したり、人から悪意を受けたり(10節)、することもあるでしょう。しかし、11節「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」とあるように、キリストは共にあり、命がけでかばってくださる。

誰も自分を理解したり寄り添ったりしてくれず、困難の中で置き去りにされた(12節)と感じることもあるでしょう。しかし、14~15節「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。・・・わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」とあるように、私達の内側も、状況もしっかりと知っていてくれる。それどころか、最善のためには、いのちまで捨ててくださる。

そのような方が、私達の羊飼いとなってくださる。この神の善意を受ける時に、私たちの内にも悪意でもなく、無責任や無関心でもなく、善意が生まれてくるのだと思います。

 

今日は礼拝で、聖餐式があります。パンとぶどう酒は、キリストの身体と血を、私達の身代わりに十字架でいのちを捨てたキリストの犠牲を表します。聖餐とは、良い牧者であるキリストに、愛されていること、導かれていることを、私達の心に刻む儀式でもあるのです。

 

<良いものとして創造された私達>

信じがたいことですが、神は私たちにこう呼びかけます。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

エペソ2:10

キリストの善意を受け、私たちの内にも善意が育まれていきますように。

第二テサロニケ1:11 「私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」

 

<今週の黙想> 朝毎に詩篇23篇を読み、良い羊飼いキリストに導かれる一週間としてください。

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