今週の聖書(8月2日~8日)

おざく台教会毎日の聖書 8月2日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

8月2日(月)出エジプト記36章

5節「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」」

民があり余るほど捧げ奉仕したのは神の恵みへの応答です。金の仔牛の罪を赦してくださり、神が再び民と関わってくださることに感動したからです。私達の宗教的な行為は、神の愛を獲得するためではなく、すでに差し出された神と愛と憐れみへの私たちなりの応答です。奉仕とは犠牲でなく応答なのです。

 

「日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」ローマ14章6節

 

 

8月3日(火)出エジプト記37章

1節「ベツァルエルはアカシア材で一つの箱を作った。」

人の手による、自然の素材で作った契約の箱。人も自然も創造された神は、その箱に臨在し、人と出会い、助けてくださいました。はかない人間の作品を偉大な神が用いてくださったのです。罪深い私達の手の業にも、神は臨在し祝福してくださるのです。あなたの小さな手を、神は喜ばれるのです。

 

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2章10節

 

 

8月4日(水)出エジプト記38章

26節「すべて、二十歳以上で登録された者が六十万三千五百五十人であったからである。」

神の愛に感動し喜んで犠牲を払った人々。神から愛されつつも、この人達の名前は、モーセやアブラハムのようには聖書に記されません。人からの評価がなければ、人間的には、寂しさや不満もあるでしょう。しかし、神は私達の全てをご存じです。人の評価も大切ですが、神の評価こそを求めたいと思います。

 

「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6章3~4節

 

 

8月5日(木)出エジプト記39章

1節「彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸で、聖所で仕えるための式服を作った。また、主がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。」

礼拝準備に関し39~40章で、実に16回も「主が命じられたとおりに」と繰り返されます。これは形式主義に陥るためではなく、神を礼拝する準備の過程で、細心の注意を払うことで、私達の心が神との出会いに向け整えられる目的があります。今週、普段よりゆっくりと丁寧に準備し、礼拝・祈祷会・日々の黙想に臨んでみてください。

 

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6章33節

 

 

8月6日(金)出エジプト記40章

36~38節「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。」

民は神の臨在を表す雲をいつも見ていて、それに従って、去り、移動し、住む、を繰り返しました。自分達の希望や都合でなく、神が彼らの人生を導きました。あなたの人生、毎日、この瞬間は何に導かれてますか?

 

「あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く。」イザヤ書30章20~21節

 

 

8月7(土)レビ記1章

4節「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」

人はかつて、いけにえの動物の頭に手を置き、自分の罪を身代わりに負わせ、その動物が殺されることで、罪が赦されました。私達は、キリストの頭に手を置き、キリストに罪を負わせ、キリストが十字架で死ぬことで罪赦されたのです。祈りの中で、キリストの頭の上に手を置いてみてください。主イエスは、あなたの罪を負って十字架へと歩まれます。あなたは何を感じますか?

 

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。・・・キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」第一ペテロ2章24節&3章8節

 

 

8月8日(日)レビ記2章

1節「人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。」

愛する神様へのささげ物には、立派さよりも、丁寧さや、気配りが求められています。手間も時間もかかりますが、そこに込められた私達の心が求められているのです。私達の日々の歩み、私達の存在そのもの(ローマ12:1)が神様への捧げものです。今日一日を、心を込めて生きみてください。

 

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12章1~2節

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