8月1日の補足資料

「最後の者を先頭にする神~神は善いお方~」(マタイの福音書より)

 

 

「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」マタイ19:30

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」マタイ20:16

 

社会的にも宗教的にも立派な金持ち青年、何もかも捨ててイエスに従た熱心な弟子達と

当時は低く見られていた何の功績もないこども達、取税人、遊女

とが対比されていて、福音の本質ともいえる箇所です。

 

*19~20章は連続話であり、切り離して理解することは出来ません。こどもへの祝福、金持ち青年や弟子達の問答、そしてぶどう園の主人の例え話は、深く結びついています。

*原語のギリシャ語では、先とは「最初」、後とは「最後」を意味します。

 

結論から言うと

先の者(最初の者):神の国に最初に入ると考えられていた人:宗教家、祭司、金持ち

後の者(最後の者):神の国から最も遠いと考えられていた人:取税人、遊女、病人、罪人、こども、

であり、少し後の21章では

 

「イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」マタイ21:31~32

とあるように、神の国から最も遠いはずの取税人、遊女が一番に永遠のいのちを受け(神の国に入る、と同じ意味)、神の国から最も近いはずの宗教科や金持ちは、神の国に入るのが非常に難しくなったのです。

 

では、なぜ最後の者が先頭になり、先頭の者が最後になるのか。

 

それは先の者の代表であった、金持ち青年とイエスの会話に表れています。

19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

 

一見ちぐはぐな受け答えですが、イエスは、永遠のいのちとは人間の考える「良い」(ギリシャ語のアガソス)ことをしてご褒美に受け取るものではなく、「良い方」(同じくアガソス)である神が一方的に与えてくださるのだ、と金持ち青年に気付いてほしかったのです。

当時財産は神の祝福と考えられていたので(そして神に祝福を受けた者=金持ちこそが先頭で神の国に入るのだと考えられていたため)、金持ちは自分の立派さや財産の豊富さに頼り、神に頼れませんでした。財産が神に頼る妨げなっていたため「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。・・・金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:23~24)と言われたのです。

 

イエスが言った、戒めを守りなさいとは、神の前に自分は正しく歩めていないと気付いてほしくて言ったのですが、青年はそんなの出来てますよ、と高慢な答えをします。

そこで、その高慢さが財産から来ていると見抜いてイエスは、貧しい人に財産を全て分け与えてから従いなさい、と言ったのです。

この青年は悲しみました。けれど、それが彼にとっての救いの始まりなのです。善い行いや財産でなく、良い方に頼るための、第一歩なのです。

 

残念ながら、弟子達も「私たちは頑張ってイエスに従ったから大きな報いがあるよね。」、と金持ちと似たような考えでした。それで、後の者が・・・の話をしたのです。

 

そして、ぶどう園の主人の話へと続きます。最も働きのない者が、働きのある者と同じ報酬を、しかも最初にもらう逆転の話です。ポイントは最後の主人の答えです。

 

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいい(直訳:良い:アガソス)ので、あなたの目にはねたましく(直訳:悪い)思われるのですか。』」(マタイ20:14~15)

 

働きのほぼない者が報酬を受けた理由は、主人が気前がいいからでした。これは直訳では「私が良いから」、となります。同じ「良い」(ギリシャ語のアガソス)が使われています。良い方から一方的に、不条理に与えられる、それが恵みであり、福音です。

 

わたしはよく、神が良い方、とメッセージで言いますが、具体的にはどのように良い方なの?と尋ねられたことがあります。一言では難しいのですが、この恵み深さ、気前の良さ、力ない者への憐みこそが良い方の本質のだと思います。

 

私達はルカ15章の放蕩息子の兄息子のように、神様は、気前が良すぎてズルいなぁ、と思うかもしれません。私達の中にも、金持ち青年や弟子達のように、自分を誇る思いがきっとあるでしょう。

けれど、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)のです。

私達は功績のない最後の者だったかもしれませんが、取税人、遊女、罪人のように、神の恵みを受けて、最初の者とされたのです。

だから忘れないでください。神は善いお方、気前の良い方であり、神の良さによって、私達はただ愛され、受け入れられ、子とされ、神の国に入れられたのです。

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