8月1日のメッセージ

2021年8月1日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ⑤~親切~」

 

10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」・・・10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

・・・10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

 

<本当の親切>

御霊の実(神が信仰者にもたらしてくれる性質。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5章22~23節より)の5つ目は親切です。親切という言葉はギリシャ語でクレストテス。親切よりも、「慈愛」や「いつくしみ」、として多く翻訳されます。(ローマ2:4、11:22など。)原語としては、役に立つ・益となる・必要を満たす、という意味の言葉であり、原語や聖書の意味から言えば「親切」とは、相手の立場や状況を知り、愛を込めて相手の最善のために動くことです。

 

教育の世界では「怒るは感情、叱るは愛情」と言うのですが、2つの違いは、こどもを一人の人格として尊重し、相手の最善を願っているかどうか、だそうです。威圧して従わせる(大人にとって都合のよい子にさせる)のでなく、こどもに媚びて甘やかす(子どもにとって都合のよい大人になる)のでもなく、愛情をもって、相手を尊重し、相手の益を願って、関わることが大切とされます。

聖書で、神と私たちとは、父と子の関係に例えられますが、神の私たちへの姿勢もまた、同じです。神は「親切」であり、私達の全てを知り、最善を願ってくれているのです。神の言葉は時に耳に痛いかもしれませんが、そこには愛情がこもっており、私たちにとって最善へと導くものです。

 

<本当の必要>

今日の箇所では、若くして社会的地位と富を持ち、行動においても欠けのない、青年が出てきます。

当時は、富や健康や知識や地位は、神からの祝福の現れだと理解され、そのような人こそが一番に神に愛され、神の国に入ると理解されていました。彼にとっての富とは、ただの喜びではなく神の愛の証明書でもあったのです。

けれど彼には、いつ失うか分からない富への不安があったのでしょうか、自分の富に加え、良い行いや、指導者からの知恵や承認を受けて、自分への神の愛をより確かなものにしたいと願い、イエスのもとにやってきます。

 

イエス様はそんな彼に、イエス様は、非常に厳しいと思えることを言います。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ただお金を手放せではない。神の愛と祝福の証しを、社会的・精神的な支えを、分け与えよというのです。そんなことをしたら、自分も貧乏人といっしょになってしまう。神の愛を失ってしまう、そう考えたのでしょう。顔を曇らせ、悲しみながら去っていきます。

イエス様は決して、意地悪な方ではありません。イエス様はどのように伝えたでしょうか。「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」のです。彼を見つめ、彼の生涯や心、本当の必要を見通し、いつくしんで(直訳:愛して「アガペー」)言われたのです。

 

今日の金持ち青年の話は、直前で「10:14 『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。』 10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」と、イエスは、富も力も地位も功績もない、何もできない、何も知らない、そのような存在である小さな子どもたちを、愛し受け入れました。その後すぐに登場したのが、対照的に全て(富、力、地位、知恵)をもったこの青年です。

イエス様は彼に、神の愛はとは私達人間側の良さ(行動や知恵や富や力や地位)によって交換条件で獲得するものではなく、神の良さ(気前の良さ:によって一方的に差し出されているものだと気付いてほしかったのです。

神に差し出そうという目的で富を握りしめていた彼にとって、神の祝福の一つの形でもある富が、逆に神の愛を受け取ることを妨げていたのです。(お金を全部分けるという立派な行為によって、神の愛を獲得するという意味ではないことに、ご注意を。)神の愛と救いは、私達の差し出す犠牲ではなく、神の差し出すキリストの十字架の犠牲によって得られるものなのです。

 

そして最後に言うのです。「わたしについて来なさい。」楽園に行きなさいでもなく、永遠のいのちをあげようでもありません。わたしについて来なさい。ヨハネはこう言っています。「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」Ⅰヨハネ5章11~12

イエスとの出会いこそが神の国であり、イエスにこそ永遠の命があるのです。イエス抜きの、神の国や永遠のいのちなどありえないのです。

 

この青年ほどではないにしても、神様の言葉が煩わしく、負担に感じ、顔を曇らせ去りたくなることはありませんか?(牧師がハラスメント的であったり、教会がカルト化した場合は、別として・・・)

イエス様は「親切」な方であり、一人一人に異なる必要があることをしっかりと見つめ、同じ愛を込めつつも、一人一人によって大きく異なる個別対応をしてくださいます。一人一人響く言葉は違うと思います。けれど、それはイエス様が響かせてくれた言葉であり、時に顔が曇るとしても、(洗礼の有無に関わらず)イエス様とより深く出会う、大切な鍵なのだと思います。

そして、私達の心が、人への敵意による批判や、自分の正しさを誇る高慢さではなく、イエス様の愛に基づき、その人の歩みや心の底を見つめいつくしむ心をもって関わることが出来ますように。

 

<今週の黙想>最近、聖書を読み、顔を曇らせた言葉は何ですか?あなたをいつくしみ、その言葉をあなたの心に響かせてくださったイエス様とより深く出会うため、その言葉と向き合ってみてください。

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