7月4日のメッセージ

礼拝は、会堂10名程、ZOOM、電話(無料通話)で対応しています。

 

2021年7月4日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ~喜び~」

 

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

ヘブル12:2

 

<悲しみの中の喜び>

今日は御霊の実(神が信仰者の内側で働いて生み出してくれる性質)の2つ目、「喜び」です。

私たちは、たくさんの喜びがあると思います。何かを達成したり、願っていたものを獲得したり、素晴らしい体験をしたり、人間関係も喜びを与えてくれます。

では、キリストはどうだったでしょう。以前、聖書の会で、キリストの受難の箇所を読んでいて、「イエス様って、苦しみや悲しみばかりですが、何か良いこと、嬉しいこと、あったのでしょうか?」という質問がありました。確かに聖書を読んでいると、イエス様は「悲しみの人」(イザヤ53:3)と表現され、その歩みは苦しみ、批判、裏切り、乏しさに満ちていました。

 

気になったので調べて見ると、こんな聖書の言葉が見つかりました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」ヘブル12:2

イエス様の歩みには、悲しみや苦しみばかりでした。けれど同時に、イエス様の目の前にはいつも喜びがあったのです。だからこそ、悲しみに押しつぶされることなく、歩むことが出来ました。

嬉しい出来事や、良い状況で喜ぶのは簡単です。けれど難しい状況の中でも喜びがイエス様を支えていました。けれど、今日は状況によらない、イエス様の喜びに目を向けたいと思います。

 

<恵みに傾く喜び>

イエス様の喜びの1つ目は、神に愛されている、神に喜ばれている喜びです。

イエス様がどんな働きも始める前から、神様は語りかけていました。「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」マルコ1:11

神は、イエスが何を成し遂げるか、何を獲得する課の前に、イエスを喜ばれた。そして、イエス様は、この言葉を胸に、その働きを始められたのです。そして、マタイは、イエスが神様から度々そのように語りかけられたことを記録しています(マタイ3:17、12:18、17:5)。

イエス様は、どれだけ歓迎された時も、どれだけ批判された時も、一喜一憂せず、度々人々から離れ、神との時間を持っていました。もしかしたら毎日、神様からこの語りかけを聞いていたのかもしれない。

喜ぶという言葉は、いくつかあるのですが、ここでは、エウドケオー(尊く見る)が使われています。人の反応は変わります。持ち上げたり、批判したり、無視したり・・・けれどイエスは人が自分をどう見ているかではなく、神が自分をどう見ているかを気にかけました。そして、神が自分の存在そのものを喜んでいること、それがイエス様の喜びであり力でした。

 

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)という有名な言葉があります。この喜ぶはギリシャ語で、カイロ―、「恵み(カリス・カリタス)に傾く」、という意味です。自分で無理やり喜ぼうとするのでなく、喜びの根拠を手に入れるのでもなく、恵みに心を、魂を傾けることで、自然と湧きあがるものです。

 

私たちは結果や状況に左右されます。ある時、イエス様は、お弟子さん達を町々に遣わし、弟子達は神様の力を体験して帰ってきました。その時、イエスは彼らを結果に左右されないように悟します。そして言うのです。「(結果を)喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜び(カイロ―)なさい。」ルカ10:20

私たちは、どのような状況でも、神の恵みに心を傾けるのです。

 

<大切な働きをする喜び>

イエス様は、神様の愛と同時にもう一つの喜びがありました。

イエス様は先ほどの事を言った後、でもそのあとで、自分は喜びに溢れて思わず感謝の祈りをしている。しかも、この喜ぶは、アガレアオー「すごく跳びはねる」という意味です。むちゃくちゃ喜んでいる。

「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』」  マタイ10:21

 

もちろん苦労もあった、大変さもあった。けれど、イエス様にとっての苦しみはただの苦しみではなく、産みの苦しみでした。それは同時に、産みの喜びでした。人が神様に出会うこと、神様の良い心が、一人一人に、実現していくこと、それをイエス様は心の底から、喜んだのです。

今日の聖書の言葉に出て来る、十字架もそうです。十字架は、苦しみの最たるものですが、神から離れ痛み悲しむわたしたちを、神様のもとへ取り戻したい。その願いと喜びをもって、誰が何と言おうが、十字架を耐え忍んでくださった。

 

私たちは、日常でも、(時に教会でも???)、こんなに苦労している、全然評価されない、たくさん我慢している、私は可愛そうであり、周囲の人は悪い、神様はひどい、そんなふうに思い、ため込んでしまいませんか?やがて何かのきっかけで、爆発してしまうこともあるでしょう。

けれど、イエス様は違った。あれだけ苦労しつつ、理解しない弟子や人々や宗教家を、敵とはみなさなかった。相手の反応はコントロールできませんが、自分が仕えること、与えることが、神の良い心を行っているという喜びがあった。そして、弟子達が、人々が(自分の思い通りになるというのではなく)神様に心向けていくとき、嬉しさをこらえきれずに跳びはねて喜んだのです。

 

恵みに心を傾けるなら、神の善い御心のために苦労するなら、イエス様を生かしたような誰にも奪えない喜びが、私たちの内にあるのです。その喜びに新しい週も生かされることが出来ますように。

 

<今週の黙想>ローマ5章や8章を、毎朝読んでみ、神の恵みに心を傾けてみてください。

 

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