7月18日のメッセージ

2021年7月18日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ③~平和・平安~」

 

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」  ルカの福音書

 

<キリストの平和>

御霊の実(神が信仰者の内と外にもたらしてくれる性質。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5章22~23節より)の3つ目は、平安です。

このギリシャ語のエイレーネ、ヘブライ語でシャロームは、『平安』だけでなく、『平和』として多く翻訳され、『安心、安全、安らか、講和』、とも訳されます。

私達の毎日に平安や平和はあるでしょうか?また、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)とも言われます。私たちと出会った人は、平和を持つでしょうか?それとも?

 

この平安、平和とは、単なる平安ではなく、キリストが持っていた平和、キリストが生きた平和であり、キリストが与えてくれる平和です。キリストは十字架にかかる前の夜、これから不安の中に飛び込む弟子達にこう約束しました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:27ではキリストの平和・平安とは何でしょう?

 

<神との平和>

キリストの持っていた平和とは、第一に神との平和です。

私たちは平和・平安と聞くと、問題のない状態をイメージするかもしれません。けれど、思い出していただきたいのですが、イエス様やパウロ、使徒達の生涯は困難や問題にあふれていました。

そうではなく平和・平安とは、状況でなく、関係を表す言葉です。ただ、波風がないことではない、状況に問題がないことではないのです。ギリシャ語で平和(エイレーネ)は、完全な者とひとつに結ばれる、一体となる、といった意味があります。嵐がないわけでなく、嵐の海の錨のように、困難の中でも、平和が、確かなものとの関係が、彼らをつなぎとめていた、そんなニュアンスです。

イエスの生涯は、裏切られ、批判され、誤解され、攻撃され、私たちならたちまち平安を失うような、平和とは正反対の歩みでした。けれど、キリストは神との平和を持っていたのです。神との間に、断絶がない、衝突や恐れがない、むしろ、しっかりと結びついているそれが神との平和です。(状況に問題がないのでなく、神との関係に問題がない、ということです。)

 

イエスと共に十字架にかけられた2人の罪人、この2人の姿は対照的です。

一人は「あなたはキリストではないか、自分と私達を救え。」言い換えるなら、自分を逃がしてくれ。状況を変えてくれ。彼の願いは自分の命が助かること、救いとは自分の状況が変わること。外側の変化を自分にもたらさなければ、イエス様に用はないのです。もちろん状況の変化を祈り求めることは間違いでない。しかし彼にはもっと大切なことがありました。どうでしょう。たとえ、今外側の状況が改善したとして命が助かったとしても、彼の本質が変わらない限り、内側の罪深い性質が変わらない限り、状況が変わってもまた同じことを繰り返し、似たような状況はまたやってくるのでは?

 

もう一人の人は、状況以上に、自分の本質・存在自体に危機を覚えていました。彼は命を助けてとは言っていない。期待していなかったのかもしれないが、死を前にして彼にはもっと大きな関心ごとがあった。それは自分がこの後どうなるか、ということ。自分自身を見つめて、自分を何とかしなくてはいけない、という自分自身への危機感でした。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」、と神とのつながりを、神との平和を求めた。そしてイエスは、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束してくださった。立派な行いではなく、信頼によって、恵みを受け取り、神と結ばれたのです。

 

<神との平和がもたらす平安>

クリスチャンとは、立派な人間でも、善良な人間でもなく、この神との平和(神との関係)に生かされた者です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ5:1(宗教Religionは、再び(Re)結ばれる(Ligare)、ラテン語が語源。)

パウロ書簡の全ては(ローマ、1,2コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、1,2テサロニケ、1,2テモテ、テトス、ピレモン)「恵みと平安があるように」、という挨拶から必ず始めたのです。

 

神との平和を持った私たちに、イエスが私の平安を残すと約束し、こう続けました。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16:33

生きている限り、様々な嵐に遭うでしょう。しかし、神が共にいて、神の助けがある。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8:38~39さまざまな困難にも勝ち、死にも勝った方とのつながりの中で、私たちは嵐の中でも、恐れず、投げ出さず、逃げ出さずに歩んで行くのです。

 

おざく台の礼拝の最後、派遣の言葉では「平和とともに世界へと出て行きなさい。」と新しい一週間へとみなさんを送り出します。 神との平和を持つものとして、神の平安に生かされるものとして、平和をもたらすものとして、新しい週を歩み出せるように祈っています。

 

<今週の黙想> ローマ8章を読み、神の平和を味わい、毎日を始めてみてください。

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