6月27日のメッセージ

信じる事、疑う事(小田切武さん)

 

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んで下さらないことがありましょう。」 ローマ人への手紙8章32節

 

誰でも信じる心と、疑う心を持っています。時に人は、疑い深い自分を悲しんだりしますが、疑うという事は必ずしも悪いことではありません。信じる心も、疑う心も神から、人に与えられた賜物であると思います。信じることも、疑うことも、正しい事に用いるならば、人は幸福になり、心に平安を持つ事が出来ると思います。

「聖書なんて非科学的なことが書かれているものをあなたは信じているのですか」この言葉の通りではないかもしれませんが、皆さんの中には同じようなことを言われた事のある方は多いのでなないでしょうか。その方に「あなたは聖書を読んだことが有るのですか」と聞くと、ほとんどの方からそんなことは無駄だと言う返事が戻ってくると思います。残念ながら、自分で聖書を読んだのではなく、誰かから、聖書は非科学的だと聞いた事をそのまま信じているのです。

ニュートンは神を信じる立派な人でした。しかし彼は、疑うこと、信じることを正しく用いる事の出来る人であったのだと思います。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て疑いを抱いたのです。なぜリンゴは下に落ちるのだろうか? この疑いによって、彼は万有引力の法則を発見したのです。ライト兄弟は、空の鳥を見て疑ったのです。なぜ鳥は空を飛ぶことが出来るのだろうか。その疑いの結果、今の飛行機の基礎を作り上げることが出来たのではないでしょうか。科学は疑うことから出発します。科学の世界は疑うことによって進歩します。では何を疑うのでしょうか。世界人口の0.2%に満たないユダヤ人がノーベル賞受賞では受賞者の20%を占めるそうです。ユダヤ民族は聖書を信じ神の存在を信じている民族です。神の存在を信じ、この地上の全ては偶然に出来たのではない、無規則に動いているのではない、神の創られた天地万物には法則があるはずだ、この法則を見つけようと研究に精進した結果ではないのかと、私は思っています。そんなことは当たり前ではないかと勝手に都合よく済ませてはいないのです。

では、信じる心、これはどこに用いなければならないのでしょうか。

今は、「人間不信」とか、「断絶」という言葉をよく耳にします。今、私たち人間は、お互いに疑いあい、信じる合う事が出来ないところに一番大きな悩みがあるのです。電話がかかってきても、まず「オレ、オレ詐欺を疑わなければならないような現実です」しかし、世界中の人々が互いに信じ合うことが出来たら、人はもっと幸福になることが出来ると思います。いや全世界とまでは言わなくても親と子が、友と友が、夫婦が互いに信じ合うことが出来たなら、お互いにもっと幸福になることが出来るのではないでしょうか。でも、残念ながら、全てを無条件に信じる事が出来ないのが人間の社会です。でも、違う世界があるのです。

「どうも神は科学的に理解できないんです。」という人は多くいます。しかし、神は疑うことで、解明し科学的に理解することのできるお方ではありません。神は幼子のように、単純に信じなければわかりません。神を知るという事は、単純に神の存在を信じることによって始まり、これによって、神の守りと恵みを体験することで、神と出会、神の存在を確信する事が出来、神に養われる幸せな世界へと導かれることが出来るのだと思います。

では神と言われているもの、何でも信じればよいのでしょうか。残念ながら、日本の多くの人たちが信仰について思い違いをしていると思います。時に「私は、信仰は何でも好きです」だから私は全ての神様を拝んでいますと言われる方がおられます。信仰心は大切なことですが、「何を信じるのか」その信仰の対象が何であるのかは大きな問題です。

狐と人間とどちらが偉いと思うかと子供に質問をしますと、「そんなことは、決まっているじゃないか、人間さ」と答えると思います。しかし、人間と比べものにならない獣である狐が、稲荷として祭られたりすると、立派な大人たちが、なんの疑いも持たないで、狐を拝んでいるのです。

偶像、それは人が作り出した神の代用品であり、むなしいものです。人はどんなに偉い人であっても神になったり、拝まれる対象になることは出来ません。私たちの信仰の対象は、私たちを創られた唯一の神でなければなりません。人間とこの世界すべてを創られた唯一の創造主なる神様だけが、私たちが信じる事の出来る神であり、私たちを愛して下さる神なのです。聖書は「神は愛である」と断言しています。そして、この創造主である神こそが、私たちの生活の全てを任せる事の出来る唯一の神です。

私もかっては、脳腫瘍に倒れ、手術後寝たきりになってしまった兄の回復を願い、近づいてきた新興宗教に入信し、偶像にすがりました。しかし兄は亡くなり、さらに私は、愛する家族と共に、苦しみと悲しみとの中でもがく結果となりました。そんな時にイエス様を信じる兄嫁が開いた聖書の御言葉で、教会に導かれ、福音の光に迎えられ、真の神に助けを求めました。生まれて初めて聖書を読み、真の神の存在を知り、単純にその神の存在を信じ、委ねることで救われました。その時、私は30歳になる年で、工学を学んで最先端の器機の開発に携わっているエンジニアでしたが、幼子のように単純に、本当に単純に、この世界には真の神が存在することを信じたのです。初めて礼拝に参加した日から受洗まで3カ月も経っていませでした。神を科学的に理解した結果ではありませんでした。聖書に記された御言葉、出来事の中に神を見、感じる事が出来たからでした。

それから40年以上、神は私と共に歩んでくださっています。決して苦しみや悲しみのない、楽しいだけの人生ではありませんでした。愛する息子が兄と同じ脳腫瘍になりましたが、結果は皆様がご存知の通りです。神様は最善を持って祈りに応えてくださいました。日常の生活においても、神は私を支えてくださいました。進む道の岐路に立たされた時、違う道が開けた方が良かった、自分の望んでいた方向は違う道だったと思われることもありました。また、なんでこんな苦しみの日々があったのだろうかと思いだされることもあります。しかし、今、その一つ一つを振り返る時、あの苦しみを乗り越えることが出来たのは、確かに神様が私を支えながら、伴に歩んでいてくださっていたからだったという事が思い出されます。導かれてきた道は、確かに神様が私のために備えてくださった道に間違いはなかった、それによって今の私があり、幸せな歩みをすることが出来たんだという事が実感でき、今は感謝に満たされています。

皆様も同じような体験をお持ちになっていると思いまます。真実なる神は決して私たちを裏切り、見捨てられる神ではありません。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とローマ人への手紙8章28節に記されている通りです。

神はすべてのことを働かせて益としてくださり、私たちを恵みと守りの中で生かしてくださるお方です。マタイの福音書6章31節~33節には「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こうゆうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなた方の天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と記されています。

今日、開いた御言葉にも記されているように、私たちの救いのためにご自分の御子さえ惜しむことなく与えてくださり、全てを導き、恵んでくださる神こそ、真実な神であって、絶対に裏切る事も見捨てる事もない神です。この神は、義を愛し、不法を憎まれます。そして神の中には暗いところはありません。私たちが、わが神とお呼びするにふさわしいお方です。この唯一の神を信じ、自分を委ねて行きましょう。

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすれば、あなたに幸いが来よう。」(ヨブ記22章21節)

この御言葉は私たち全員に与えられているのです。

今週も、この御言葉を信じ、全てを与えてくださり、恵みに満ち溢れておられる愛の神に支えられた一週間でありたいと願います。

 

今週の黙想:神の前に静まる時を持ち、これまでに受けた神の導きと恵みを数え、感謝と祈りを持って新

たな気持ちで歩んで行きましょう。

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