6月20日のメッセージ

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2021年6月20日   「キリストの実を結ぶ~愛~」

 

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。      ガラテヤ

 

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」   ルカ23:34

 

<罪の実でなく、神の実を結ぶ>

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、この9つは聖書で「御霊(みたま)の実」と呼ばれ、神が私達が生み出してくれる品性、とされています。(御霊とは?三位一体の聖霊なる神様。神の御霊、キリストの御霊(ローマ8:9)とも呼ばれます。)

それらは、5章19~21節の、私達の罪の性質から生まれるものと対比されています。今はコロナ禍で、人と人と衝突や責め合いがふえ、互いの距離が離れて行く時、私達の心が弱り内側から「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、」(20~21節)が溢れやすい時です。今こそ、御霊の実が、キリストが私達の内側に良いものを生み出してくださることが必要であり、信仰者は神の性質によって人に仕えていく必要があるのです。今回からキリストの実というシリーズで、お話しします。

<愛することは、ゆるすこと>

第一回目は、愛です。ここでは私達の考える愛ではなく、神の愛、キリストの愛です。エロス(異性愛)やフィレオ(兄弟愛)でなく、アガペーの愛です。先日キリスト教幼稚園の園長先生が「愛することはゆるすこと」と言っておられました。聖書は、本当の愛として(ドラマに出て来るような、ロマンチックな場面でも、家族愛の場面でもなく)、十字架を、ゆるしを指し示します。

ゆるすとは、ヘブライ語やギリシャ語で、運び去る、覆う、拭う、取り除く、解き放つ、憐み深く扱う、などの意味があり、罰や報いに値するのに、罪がなかったかのように取り扱う、というニュアンスです。

ヨハネ8章の石打の女性に対するイエス様の姿もそうですね。当然の報いを与えるのではなく、放置したり容認するのでもなく、新しく歩むことを期待する、相手を想い、最善を願っていくことです。

 

ほんの少しのゆるしなら私にも可能です(被害がごく小さなもので、私の心と健康と経済にたっぷりの余裕がある時、そして当然相手は反省している・・・という条件が付きますが・・・)

ですがたとえ、相手が間違っていた時さえ、理解も反省もない時さえ、自分がどれだけ被害をこうむったかによらずゆるす、それがキリストのゆるしです。

それが十字架に表されています。ただの十字架ではない(十字架は死刑の方法であり、たくさんの人が十字架で殺されたのですから)罪も責任もない神の子キリストがかかった十字架だから特別なのです。

弟子達は裏切り逃げ出し、宗教家は勝ち誇ります。人々は好き勝手を言います。けれど、弟子が逃げても、宗教家がどれほど勝ち誇っても、私たちがどれだけキリストを無視しても、イエスは十字架で、彼らに、私たちに、赦しを宣言してくださった。彼らが受けるべき石を、彼らがかかるべき十字架を、身代わりに引き受けてくださった。私達の罪を拭い取り、神との関係を、新しい歩みといのちへの道を開いてくださった。これが神の言う「愛」なのです。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:10)

 

<愛する人は、ゆるされた人>

私たちは、愛がない時、ゆるせない時、身体は強張り、神経は張り詰め、こだわりを握り締め、心は固く閉じこもっています。先日、谷川俊太郎さんの本を読んでいて、日本語で「ゆるし」とは、「緩し」という言葉だと聞きました。怒りや、恨みや、責める思いに、満たされていた手や心の力を緩めるイメージでしょうか。聖書でも、手放す、自由にするなど、似た意味の言葉が使われます。

 

私達の張り詰めた心と魂を、どのように緩め、解きほぐし、愛の心に変えるのか?イエスはただ愛せよとは言いませんでした。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)先にイエスが愛されたのです。私たちは愛されたから応答で愛する、先に赦された者だから、赦すのです。旧約学者エレミアスは、聖書のすべての戒めの前に、「あなたはゆるされた」を付けなさいと語ります。

 

赦されたことを味わうほど、人を愛するようになります。ルカ7:37~50

逆に、赦されたことを忘れ去るならば、人への愛と赦しは不可能です。マタイ18:21~35

 

ヨハネ8章で女性を責めていた人達、彼らはなぜ石を投げなかったか?もちろん個人個人に、思い当たる罪があったのでしょう。ただ、ユダヤ人にとって罪とは、犯罪や行為ではなく、神との関係の問題です。イスラエル民族は、異教の神や異教の国と「姦淫の罪」を犯し続けた民族でした。それでも、何度でも何度でも、神に赦され、神に愛され、滅び去ることなく、存在することができた民族です。自分達は神に赦されて、今ここにいるのだ、そう、気付けた人もいるでしょう。ユダヤ人にとっての神は、「赦しの神」(詩篇99:8、ネヘミヤ9:17)であり、赦されるたびに「あなたは私のすべての罪を、うしろに投げられました。」(イザヤ38:17)と感謝し続けた民でした。女性を責める思いが、イエスへの敵意が、神の愛に思いを向ける時、緩められ、溶けだしていったように思えます。

 

イエス様は、私たちが投げようとする石も、私たちが投げられるべき石も、全てご自身が引き受けてくださった。私たちは今、赦されてここにいるのです。ルターは、信仰者を「赦された罪人」と表現しました。先に赦された者として、赦しを味わい、十字架のキリストを見上げ、感謝していく先に、愛の実が、ゆるしの実が生まれていくのです。愛は、努力の実ではなく、御霊の実、キリストの実なのですから。

<今週の黙想>朝毎にローマ5章を読み、一日を始めてみてください。

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